一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

判定不能



 深夜零時。蒸し暑い。かような夜は散歩をかねて、買物に限る。

 日昼猛暑でも、夜中は涼しいという日が、この夏なん日かあった。室内には余熱が充満していても、玄関を一歩出れば楽になったので、助かった。程よい風を愉しめた夜もあった。
 台風は困る。吹き降りは、老朽家屋の天井に新たな染みを増やしかねないからだ。幸い今回は、豪雨というほどではなかった。暴風ということもなかった。それでも、玄関の外で涼むというわけには、ゆかなかった。
 台風一過、昨夜は完璧なる無風状態。海で申せばベタ凪だ。蒸暑い。呼吸に不自由を覚えるほどだった。

 散歩をかねて買物。コンビニや二十四時間スーパーが近所にあってくれて、大助かりだ。
 月の近くでひときわ明るい星は、なんだろうか。どなたにも想い浮ぶ疑問と見えて、ネット上には質問と回答が溢れかえっている。季節によって答は異なるらしい。時刻や方角によっても。
 じつは天体望遠鏡で覗けば、月の周辺にもびっしり星が散りばめられてあり、なかのいくつかはたいそう明るく瞬いている。いずれが肉眼で見える星なのか、判断に窮するほどだ。印象強烈にひとつだけ見えているのは、肉眼が鈍感であることの功徳による。
 なにごとも、見えりゃあ好いってもんじゃない。


 まずはファミマで煙草。スーパーからの帰りだと、買物袋の中身が重いものだったり、冷凍庫・冷蔵庫へ急ぐものだったりする場合も多い。軽く小さいものは、先に済ませる。
 ガマグチに小銭を切らし、五千円札を出した。
 「お先にいたゞきます」
 店員さんがレジから釣り札を用意するあいだに、ひと声かけて商品を袋に移す。たいていの場合、さように声をかけることにしている。代金決済の前に商品に手を出す失礼をご了承いたゞく意味だ。順番待ちのお客さまのために少しでも手早くとの意味でもある。お若い店員さんにとっては耳慣れぬ台詞なのか、無言のかたがほとんどだ。一瞬キョトンとなさるかたさえある。ところが今夜は、
 「どうぞ、お取りください」
 最近シフトに入るようになった、学生バイトさん風の女子店員さんだ。お年寄りのおられるご家庭に育たれたろうか。それとも良いお育ちのかたか。むろん裕福という意味でなく、常識が貫かれてあるという意味で。だって、こんな台詞への応対が、ファミマの研修マニュアルに含まれているとは、思えないもの。

 ビッグエーは終日営業といっても、午前二時から四時までは従業員休憩のためと、翌日商売へ向けて陳列棚調整のために、事実上買物を遠慮すべき時間帯となる。直前のこの時間帯が、客も少なく、あれこれ迷いながらゆっくりと買物できる時間帯だ。商品によっては、製造元やカロリー表や含有成分などをじっくり比較しても、人さまにご迷惑をおかけせずに済む時間帯でもある。
 この時間ならではの難点もあって、複数の商品センターからの保冷トラックが次つぎ到着して、身の丈ほどの脚輪付きコンテナが、店中の通路という通路に所狭しと並ぶ。こちらはその間を縫うように身を斜めにして、または真横に蟹歩きして、商品をカゴに取って歩くのだ。目当ての商品が、どうしても手の届かない位置にある場合もあって、仕方ない、ひと眼を窺ってからこっそりと、コンテナをかすかに移動させることもある。
 なぁに、あちこちに監視カメラがあることだろうから、どうせバレているにちがいないのではあるが。


 まず牛乳を補充。底を突いたから絶対だ。あとは不要不急だが、不要不急なればこそ、迷い処である。
 一年をとおして仕立て続けている煮物炊き物は、いかに冷蔵庫保存しても、この時期は足が速い。またメイカー加工食品についても、つい先ごろのこと、小肌の酢漬けの酢が心持ち浅いなと思っていたら案の定、数日後には首を傾げざるをえなくなった。
 クレームではない。この陽気に、小肌を食おうとするこちらが悪い。日常惣菜とはいえ、季節に抗ってよろしいことはない。で、なにか季節負けせぬ廉価の保存惣菜はと、迷うわけだ。

 客の姿は、広い店内に数えるほどしかない。むろんレジの行列もない。レジカウンターには卓上ベルが置かれていて、チンッと押すと、棚揃えに夢中だった男子店員さんが小走りにやってきてくださった。エプロンの下にネクタイが見える。パートさんバイトさんがお盆休み中の穴を埋めるべく、シフトに入った社員さんだろうか。
 「お仕事中、すみません。お願いします」
 私に応対してくださるのもお仕事にはちがいないものの、効率最優先で隙なく動いておられるかたのお手を中断させるのだ。当然の声掛けと思っている。
 「とんでもございません。お待たせいたしました」
 当りまえのように、自然に、スッと声が返ってきた。さすがに、この人はちがうな。

 ところで、今夜の買物に見える、わが暮しぶりの不合理な偏り。鯖缶ふたつとチルドカレー三袋。これで代金は煙草ひと箱ぶんと少々。節約するなら、煙草やめろっ、の噺だ。
 ハッピネスからウェルビーイングへ、という標語は、どういう含意なんだろうと、昨日から引続き、考えているのである。
 煙草はお高い。私にはこれで十分というセール食品はお安い。そしてビッグエーを出しなに、高いのか安いのか私には判定不能の商品が、眼に着いた。