一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

小世界

森本哲郎(1925‐2014)
『ある通商国家の攻防――カルタゴの遺書』(PHP研究所、1989)

 森本哲郎さんのお言葉に注意を払っていた時期があった。新聞記者からフリーの文筆家となられたかただが、私の眼には市井の哲学者と見えていた。テレビ司会者森本毅郎さんのお兄さまである。

 地中海周辺の盛衰史を、ギリシア人からでもローマ人からでもなく、フェニキア人に焦点を当てて眺めるという発想に、新鮮さを覚えた。魅力的だった。
 むろん私があまりに無学だったからだ。森本さんのご著書がきっかけとなって、古書店の棚に眼を凝らしてみると、じつのところあるわあるわ、地中海交易の狂言回しフェニキア人について、また彼らの最大最強の植民国家カルタゴについての本は、次つぎ眼に着いた。ほとんどは外国人学者か文筆家によって書かれた本の、翻訳書だったが。
 英雄ハンニバルで有名なカルタゴとローマとが戦った大戦争ポエニ戦争)に関するものが多いが、それ以前の、そもそもフェニキア人が地中海へと乗出した経緯から説き起した文献もあった。

 砂漠の部族が次つぎ東方に興亡したが、いずれも地中海を眼の前にして、それより西へ勢力を伸ばすことを断念した。ひとりフェニキア人だけが、勇躍ラクダを乗捨てて船に乗換え、地中海へと押出したのである。エジプト世界とギリシア世界とを結ぶ三角貿易で、富を母国フェニキア(今のレバノン)へ持ち帰った。
 元手はレバノン杉と紫染料。今でこそ砂漠地帯だが、当時は杉が林立し、まっすぐ長い木材が入手できた。それを竜骨(キール)として、紡錘形の船を考案した。それまで丸木舟や筏を源流とする小型船で、沿岸沿いか島伝いにしか移動できなかったのが、大型船で中海を突っ切ることを可能にした。荷の大量化と経路の短縮化だ。
 また巻貝の臓物(?)から、いずれの地域でも高貴な色とされた紫染料を精製する技法を編み出した。一個の貝から針の先ほどしか採れなかったが、なにしろ地中海東岸に巻貝は無限にあった。その精製技法は門外不出とされ、現代に伝わってはいない。
 船と染料で資本を成し、あとはエジプト世界をギリシア人へと運び、ギリシア世界をエジプト人へと運んだ。ちなみにヘロドトス『歴史』においては、フェニキア人の船がアッティカギリシア)の浜へ着いて交易(物々交換)を求めてきたことが、ギリシア人にとっての国際問題の始まりであると記録されている。

 森本さんは、国家ごとの文化盛衰の型を三分類して見せた。古代ギリシア人の繁栄期は短かったが、植民政策や交易をとおして、ギリシア語と文化は広く伝播し、本国衰退の後も、西欧文化や美意識の基礎とも規範ともなった。ローマ人の文化はギリシア人の模倣の域を出なかったが、凄まじい領土的野心を発揮して、長きにわたり広域世界に覇を唱えた。フェニキア人は領土拡張にも、出先への文化普及にも興味はない。交易による富を、ひたすら母国へと持ち帰ろうとした。
 古代地中海を現代太平洋・大西洋に置き換えればなにが見えてこようか。西ヨーロッパはギリシア人のごとし、アメリカはローマ人のごとし、日本はフェニキア人のごとしではないのか。というのが、森本さんの着眼だった。
 なにしろ日本企業のアジア各国への進出が、功も罪もさかんに取沙汰され、とあるアジアの国の閣僚の発言が流行語となって、「エコノミック・アニマル」が日本人の綽名だった時代だ。

 半世紀経ってみて、わが国の位置づけは少々変化したかに見える。アニメ・マンガ・コスプレ・カワイイ、カラオケその他、またスシ・ラーメン・カツカレーその他、文化をともなった日本語由来の世界共通語が数え切れぬほどあるそうだ。へぇー。私はその分野に不案内だ。
 きわめて片寄ったわが得意分野で申せば、ブッカケ・ハメドリ・イク・ゼッチョーその他、かなりの外国人青年に通じる日本語だ。とある教授から、三島由紀夫を研究テーマにして日本留学中という、アメリカ人の女子大学生に引合されたことがある。会話中に「主観的」と発言したら、顔を赤らめて俯かれてしまった。「シュカン」じゃないってば。

 日本は古代ギリシアになりつゝあるのだろうか。そういえば、領土的野心を隠そうともしないローマ人的国家も、富と序列と速度とをやたらに誇りたがるフェニキア人的国家も、周辺にはありそうな気もする。
 日本は今どき、カード決済できぬ商店の多い、遅れた国だそうだ。私にいたってはつい昨日も、QR コードが読取れなくて往生した。しかし往生はしても、わが身が不幸だとは感じない。

 ハッピネスからウェルビーイングへ、という標語があるそうだ。幸福でなんぞなくたって平穏でさえあれば、というような意味かと、勝手に受取っている。さらにこれを私流に申し直せば、俺はちっぽけな満足や、ちょいとした面白さでけっこうだ。
 起床後ただちに開けたパソコンで、ブログ閲覧数にわがラッキーナンバーの 7 が多く、数字の並びもしごくよろしい。今日は佳き日である。
 根拠ですと? 知るもんですか、そんなもん。