一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

コスパ


 本日がメロン君のご命日となる。

 元村君からご恵贈に与った夕張メロンが、年に一度のわがゼイタクたる事情を記したのは、八月十六日だった。四分の一カットにして、四日間にていたゞいた。皮をさらに半分にして、フリーザーバッグに収め、冷蔵庫の隅にとってあった。使い途がある。
 林檎や梨の芯はもちろんのこと、夏蜜柑やグレープフルーツやメロンの皮など、果物の残骸は糖度が高いからか、発酵力抜群だ。地中でまたゝく間に黒ずみ、べとついた塊となる。みずから地に帰る速度が速いばかりでなく、触れあった枯草類の発酵をも促進すると見える。
 正しく比較観察したわけではないが、ブドウの皮がもっとも力に富んでいる気がする。と申しても、品種によっては皮ごと口に放りこんでしまうから、ブドウの皮が余る機会はめったにないのだけれども。
 また残骸といっても、種子には気を遣わなければならない。完熟果実だったりすると種子の力も侮れない。うっかり芽を吹いてきたりしようものなら、管理しきれない。

 ネズミモチの切株から四方に伸びた根のうち、かなり太い一本を苦心して伐りとったのは、ずいぶん前のことだ。跡が、幅二十センチ長さ一メートルほどの穴となった。そこへ枯らした刈草を捻じこんでおいた。盛上げ踏んづけてはおいたが、それで密度十分というわけにはゆかない。時が経てば土に帰りつゝあるぶんだけ体積が減り、窪地のようになる。
 そこへ今日は、新たに枯草を盛り足そうというのである。そのさいメロンの皮の力も借りようというのである。枯草は今後もどんどん体積を減らしてゆき、ふたたび窪地となるだろう。なん度でも、枯草を足してゆかねばならない。

 枯草を盛る。踏んづける。さがるからまた盛る。両足で、全体重をかける。さがる。盛る。まだまだ盛れそうだが、一気に解決しようとしても無理だ。
 枯草の弾力をいくらかでも抑えるべく、盛草の中央付近にブロックを置き、そこいらの石を一個のせておいた。

本日の三十分作業。

 かような作業を、昨今では「コスパが悪い」と云うそうだ。コスト・パフォーマンスの略だろうが、珍妙な言葉だ。「作業効率」というのと、どこが違うのだろうか。私には二つの点で、珍妙な言葉に聞える。
 コスパはコスメとどう違う? スタバだって似たような言葉に聞えかねない。表意文字を放棄して、日本人は今後将来表音文字に順次移行しようというのだろうか。アルファベットやハングルに倣うことが、世界標準だとでもおっしゃるのだろうか。日本語習得に困難がともなうとお嘆きの外国人さんを、お手助けするためだろうか。表音言語であるために同音異義語が増えてしまって、文化・芸術の発展に支障をきたしている国ぐにを、今さら後追いしようとするのだろうか。という問題が一点。
 もう一点。コスト・パフォーマンスという英単語は、本当にさような意味なのだろうか。資金や労力を投下したに見合うだけの売上げがあるかどうかという、経済経営用語ではないのだろうか。高額の機械に、相応する性能があるかという工業用語でもあったという。不良品いわゆるオシャカの発生率を云うにも用いられたらしい。
 拡大解釈といえば耳に優しいが、原語に不忠実なだらしない援用に思えてならない。というよりも、英単語コスト・パフォーマンスと「コスパ」とは、まったく別の言葉として受容されていると、考えるべきなのだろう。つまりは、日本人が表音文字を好きになったのだ。コレって、めっちゃヤバイ。

 ともあれ、元村君から頂戴した巨大夕張メロン君は、九割がた私の体内へ、一割見当は拙宅地中へと帰るべく、本日無事ご成仏の運びとなった。