一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

千駄木私景


 谷中散歩を一段落して、千駄木方向へ移動するまえに一服。かつて若気の至りとしか申しようのない会話をずいぶんした喫茶店が、今も健在だ。店内はいく度も模様替えされて、今風になっちゃいるが。

 名代の佃煮屋さんと煎餅屋さんは、今も向いあっている。食堂にして喫茶店でも甘味処でもある、花家さんとあづま家さんの両店が隣同士に並ぶという、都内でも珍しかろう風景も、記憶のまゝだった。
 しかし記憶なんぞというものはじつに手前勝手にして他愛のないもんだ。バスケ部の先輩と声荒げての大喧嘩となり、一同揃って摘み出されてしまったのが、さて花家さんだったかあづま家さんだったか、はっきり思い出せない。どちらかではあったのだが。
 街並だって、古い写真と眺め較べでもしてみれば、ずいぶん模様替えが繰返され、変化していることだろう。シャッターが降りている箇所など、昔はこゝになにがあったか、とんと思い出せない。
 ルノアールの狭い喫煙ブースに閉じ籠って、あれこれ蘇ってくるのは、気恥かしい記憶ばかりだ。

 「夕焼けだんだん」「谷中銀座」では撮影を控える。私が知るこの界隈は、そんな名で称ばれるようになっちゃいなかった。谷根千ブームよりも前の時代である。「その道を右手へ入ったところが名人志ん生が住んでた家です。今は息子さんの馬生さんがお住いです」そんな時代だった。
 昼席を了えて、早くもご機嫌になられたものか、まだ日のある暮れかたに、馬生師匠がお足もと危うく帰ってゆかれるお姿を、いく度もお見掛けした。
 気をとり直す。今回は想い出散歩ではなく、目的がある。谷中銀座を足早に抜けてしまって、売切れてしまうまえにアップルパイを買わねばならない。

 和食の店である。創業ご店主がたいした趣味人で、俗に申すキの付く鉄道マニアでいらっしゃった。コネを用いて払い下げられたか、マニア間の交換市で入手されたかした鉄道グッズが、店内にも入店導入路にも溢れ返っていた。
 音楽ファンでもあったご店主は、つねに芸大音楽学科の学生を可愛がり、さして広くもない店内ではあったが、ソロやデュオのライブがしばしば催された。
 一九八〇年ころのこと、中国へ出張した私は濃紺の人民服を自分用に買って帰った。それを視たご店主は、これはイイこれはイイとさんざん誉め倒したあげく、持ち帰ってしまった。中華人民共和国の人民服が、国鉄機関区での整備員の作業服と似ていたからだったろうか。
 飛び抜けて個性的であられた創業ご店主が亡くなられてからは、しだいに疎遠となって数十年。今の経営者については存じあげない。


 さんさき坂からへび道へと折れる角に「ペチコートレーン」がある。カフェレストランにして、夕方からは知る人ぞ知る酒場となる。音楽ライブも、しばしば催される。
 界隈に、シンガーソングライターにして出版編集者でも文筆家でもある異能多彩の人近藤十四郎さんがお住いで、なん年前になるだろうか、彼の企画による月例トークライブ「ペチゼミ」がこのお店で催されていた。地元密着型の、なんとも心温まる、快適空間だった。
 私の出番は二か月に一度で、イラストレーターにしてエッセイストの金井真紀さんと、隔月交互出演というかたちだった。

 近藤さんも金井さんも、手短にご紹介できるようなタマじゃないので、今は詳細を控える。
 金井さんは『酒場學校の日々』『世界はフムフムで満ちている』『働く動物と』などで、最適な挿絵をご自分で描き添えられる文章書きとして、頭角を現し始めたころだった。その後『パリのすてきなおじさん』が当り『世界のおすもうさん』『戦争とバスタオル』ほか、いずれも意表を衝く着眼と余人には及びもつかぬ行動力とで、面白く柔軟な新境地を拓いてゆかれた。
 近藤さんがそこまで狙っておられたかどうかは伺い損ねたが、これから昇り龍の勢いを見せそうな金井さんと、落日直前と申すべきか、未来はないが過去が色々だったらしい気配の私とを、地元のご定連に交互にお見せするという、思い返してみてもなかなかの企画だった。
 私にとっても、自分の暮しでは出逢う機会などありえない種類のかたがたと新たなご面識を得られる、思い出深い経験をさせていたゞいた。

 さて、帰るとするか。めっきり疲れやすくなった。帰宅ラッシュのピークをやり過すべく、地下鉄千駄木駅への下り階段の脇にあるサンマルクカフェで一服する。
 と書いたところで、じつは散歩からすでに二日経っている。アップルパイは無事に買えた。一人家族の至福、すべて自分で平らげた。