一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

回帰への道筋


 帰り道が遠く感じる展観と近く感じる展観とがある。

 お若い友人にしてイラストレーターの武藤良子さんの作画展が、久びさに東京で催されるとのことで、出掛けてみた。恵比寿の小画廊での展観から一年ぶりだ。モチーフは椿の花に一貫しているから、催しも不動の「百椿図展」だ。
 室生犀星記念館のグッズデザインを担当なさったこともあってか、もともと金沢とはご縁の深かった武藤さんだが、この一年は東北地方の数都市を皮切りに、岐阜多治見、岡山倉敷、沖縄などで展覧会が催された。いずれも書店もしくは古書店が会場となっていたり、骨折り役となっていたりしたところを視ると、なにかそういった、心ある小書店さんがたの横情報網(シンジケート)でもあるのだろうか。インタビューしてみればよろしいのだろうが、伺ってみたことはない。

 今回の会場も西池袋にあるブックギャラリーポポタムさんだ。新刊書店でも古書店でもない。あたりは中間富裕層の邸宅やマンションが建ち並ぶ閑静な地域で、夜が更ければ人通りも絶える。そこにポツンを灯を点した本のセレクトショップである。ご店主のお眼鏡にかなった書籍や雑誌を、客に紹介したいとのお志の店である。売場の奥が、小ぢんまりとした展示スペースとなっている。
 棚にも平台にも、美術や映画や児童図書、沖縄や韓国の民俗、分野をこれと名指ししがたい若い才能による美意識の突出しと見える商品が並べてある。つまりあらかじめ客を厳しく選別なさった書店だ。

 下司な性根がすぐ露呈して、これでは取次店との定常取引の株は持てまいし、かといってこれほどの点数を版元との直取引も手間がかかり過ぎる。どうなさっておられるのだろう。
 巨大情報のやりとりによる大量生産大量消費の時代へと移る以前、良心的な小書店の親父さんがたが、神保町裏通りの小取次店を歩き回っては、目星をつけた本を一冊二冊と仕入れて、自転車の荷台に取付けた箱に収めていた風景を、かろうじて記憶している。アレを今の時代に、なさっておられるのだろうか。
 だとすれば、遅れてルゥ、とは思わない。逆だ。先進的である。巨大メディアと大量生産大量消費が、文化を消費する風俗的かつ娯楽的局面を牽引する時代は、もうしばらく続くかもしれない。しかし文化を形成する創造局面においては、すでに活力を失って久しいではないか。神経細胞の先端で、もっとも小刻みに激しく動いている部分を感知できなくなって久しいではないか。先端に身を置くものは動けばよろしいのだ。狙えばよろしいのだ。狙いが外れて無名者の淵に沈むことは覚悟せねばならぬけれども。

 さて武藤さんの「百椿図」だが、この一年で、先端の神経細胞は激しく動いた。同一シリーズとは思えぬほどの形と色とが躍動している。ただし恵比寿の展観でも観たと記憶する絵柄も数点混じる。つまり今回の展示は、百椿に惹かれ触発され、離れ捨てては、またも発見してきた、この一年の武藤さんの回顧展なのだ。
 おそらく今の武藤さんは、カレーライスを観てもガード下に乗り捨てられた自転車を観ても、墓地で塔婆を観てさえも「あっ、コレって椿だ」と感じることだろう。眼が、そうなってしまっておられよう。
 往相とはとかく、さようなものだ。そして本人の気づかぬうちに、かすかな還相の萌芽がきざしている。

 ところで、ブックギャラリーポポタムさんの所在地は西池袋二丁目なのだが、ご店主は目白駅から通勤なさっておられるのだろうか。検索すると目白駅からの道順が表示されてある。が、昭和二十年代末からこの地に住まう者から申しあげると、この界隈は説明しにくい微妙な一帯であって、最寄り駅は目白とも池袋とも、西武池袋線椎名町とも称される、いずれからもちょいと不便な地域だ。遠く武蔵野鉄道の時代には、池袋と椎名町の間に「あがり屋敷」という駅があり、戦時中に営業廃止となったのだが、その駅からほど近くなのである。
 私にとっては私鉄に乗り、池袋にて乗換え、目白で下車してから歩くには、どうにも腹の立つ場所である。西武線から飛降りるわけにもゆかない。いきおい椎名町方向から歩くことになる。ご近所回遊散歩にも息切れする老人には、けっこうご立派な距離となる。注意深さと興味と愉しみとで、往く道は近い。さて帰り道はということだが。

 チコとビーグルズをご記憶のかたはおられるだろうか。『帰り道は遠かった』というヒット曲をご記憶されるかたはあるだろうか。グループサウンズ真盛りの一九六八年にリリースされた。男性グループ中心のブームにあって、美少女歌手を男性サイドメンが取囲む編成の異色グループだった。

  ♬ 帰り道は遠かった 来たときよりも遠かった
    ・・・・・
    ・・・・・
   あなたは知らない それでいいの いいの

 各コーラスとも最初の一行と末尾の一行が魅力的であって、中間部分を今聴いてみると、顔が赤らむほど能天気というか、他愛無さの究極といった歌詞だ。作詞はあの藤本義一である。すでに「11PM」大阪版の司会者として顔も名も知られてはいたものの、直木賞受賞よりはだいぶ前だ。
 なぜだろうか。私はこの楽曲を記憶している。のちの来しかた折に触れては、帰り道が遠く感じるか近く感じるかを感じ分け、そのたびにこの曲を口ずさんできたからだろうか。

 往相は遥かな道のりだがあっという間だ。幻想は束の間に見えてあんがい長い。往相と自覚していた日々が、じつは還相にもなっていたからだ。
 武藤良子さんの展観からの帰り道は、懸念したよりはずっと近かった。