一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

御大ontai

 『丹羽文雄作品集』全九巻〈八巻+別巻〉(角川書店、1957)

 文学史にも芸術論にも、時局にも世相にも関心が失せた晩年には、丹羽文雄作品を読んで過すのがよろしいのではないかと、思っていた時期があった。生立ちや家族の宿命も、男女関係の底なし沼も、超克や救済への祈りも、揃っていた。
 どうやらさような時期は到来しそうもない。心境至るより先に、眼が弱り脳が弱り、読み通せそうもない模様となってきた。

 西鶴を中心とする江戸文学のご講義を授かった暉峻康隆教授は、学生時代は丹羽文雄と同級で、語らっては同人雑誌発行を企てる間柄だった。ご講義の脱線余談ではしばしば、「当時、丹羽君は~」と懐かしげにおっしゃった。「にくん」という独特のアクセントだった。
 彼らが学生だった大正末から昭和冒頭へかけての時代は、未曽有の文学同人誌乱立時代だった。後年の回想録類では、文科の学生三人が額を寄せあって真顔でなにごとか話していたら、まずたいていは同人誌刊行の下相談だと、大仰に笑い話化された。尾崎一雄の長篇回想録『あの日この日』に詳しい。渦中に身を置き、しかも周囲の仲間や論敵にまでもっとも眼配りを欠かさなかった人による、生なましい証言である。
 「にくんと~」あらかたを下相談したうえで、尾崎一雄先輩のもとへご意見を伺いに行ったと、教授はおっしゃった。教授も当時は学問と小説の二刀流で、娯楽小説「ちょんまげ巾着切り」は、まあまあ売れたそうだ。好い気になっていたところを、山口剛教授から「いい加減にしろッ」と一喝され、中途半端は虻蜂取らずに了ると悟って、学問一本に絞ったとおっしゃっていた。

丹羽文雄(1904 - 2005)

 生立った家庭の複雑さから、人間が欲(ことに性欲)の前でいかに脆い存在であるかを痛感していた丹羽文雄は、当時から異様な速筆だったという。次から次へと習作を書いてくる秘訣を仲間から訊ねられて、外出すれば金がかかるばかりだから、金がない自分は下宿に籠って小説を書く以外のことはしていないと応えたそうだ。
 生涯にわたり、多作速筆の作家だった。絶頂期には四百字原稿用紙に二百字までは入っていまいという原稿だったとの伝説もある。難読きわまる筆跡も有名で、中央公論社には丹羽原稿を解読できる特技をもった編集部員がいた。解読しかねた他誌の編集者は、解読依頼に中央公論社を訪ねたという。

 大家になってからの丹羽文雄が、同人誌『文学者』にポケットマネーを注ぎ込んで、広く後進の面倒を看たことに関する美談や伝説には事欠かない。なにせ同人総会の上座には、中山義秀火野葦平石川達三なんぞという、とんでもない重鎮が客人格で顔を並べたりする。若手を具体的に指導する中番頭クラスが、戦後の芥川賞作家である石川利光あたりだ。
 瀬戸内寂聴や、吉村昭津村節子ご夫妻など、『文学者』でシゴかれた想い出を生涯の宝と回想する作家は多い。

 あるとき、色川武大が丹羽邸の玄関先へと訪れた。ふいの来訪に怪訝顔の丹羽御大が式台に立つと、土下座せむばかりに深ぶかと礼をした色川は、やおら金封を取出し、御大に差出した。あのとき拝借した金をお返しに参上したという。どうにも暮しが立ち行かず、にっちもさっちも行かぬというとき、生活費の足しにと恵んでもらったのだった。
 「はぁて、そんなこと、あったかいなぁ」丹羽は記憶していなかった。なにせ十数年前のことである。
 その間に色川武大は井上志摩夫の筆名で時代小説を書き、阿佐田哲也の筆名で『麻雀放浪記』を始めとする麻雀娯楽小説で大当りし、その他筆名がいくつあったのやら、担当編集者以外は知る由もないほどの、怪物作家となっていた。テレビにも雑誌にも引っぱりだこの有名作家だった。あぶく銭には困らなかったはずだが、彼が丹羽邸を訪れることはなかった。年月を経て色川武大に戻って、泉鏡花賞直木賞ということになり、ついに丹羽邸の玄関先に立ったのだった。
 御大にとって、また今の色川にとって、金額はさほどもものではなかったかもしれない。
 「先生、これは文学で稼いだ金でございます」
 即座に真意を察知した丹羽文雄は、「そうかそうか、ありがとうありがとう」と、金封を押し戴くように受取って、袂に入れたという。
 残念ながら私の世代は、雑誌『文学者』に間に合っていない。


 『丹羽文雄文庫』二十冊(東方社、1953 - 55)。

 帯広告には全百巻刊行と予告してある。実際になん巻まで刊行されたものか、私は知らない。第一巻から二十四巻のうち、ぽつんぽつんと中抜けの二十冊である。
 角川書店版『作品集』と東方社版『文庫』、ともに古書肆へ出す。中公日本文学(いわゆる青箱)の「丹羽文雄」一巻のみを残す。収録作品は長篇『顔』一作のみだが、付録の年譜・資料および浅見淵(ふかし)による解説を貴重とする。浅見は尾崎一雄丹羽文雄と同じ時代に、ライバル同人誌の中心的書き手だった人である。
 毎度繰返すが、文学史的評価とは関係ない。もとより世評とは無縁だ。私一個の余生に再読の意欲生じる可能性ありやなしやのみを基準とする。『浅見淵著作集』全三巻、『昭和文壇側面史』『史伝早稲田文学』は当然ながら、戦前刊行の小説集まで、浅見淵については、すべて残す。