一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

最終戦後文学

 井上光晴作品をすべて読破してやろうと、企てた齢ごろがあった。挫折・棚上げのままに了ったけれども。

 年齢で申せば、吉行淳之介安部公房吉本隆明より二歳下で、三島由紀夫より一歳下だが、井上光晴の作風も題材も、より上の世代のいわゆる「第一次戦後文学」作家たちと共通点が多い。いわば最終戦後派文学作家だ。
 炭鉱労働者問題、被差別地区問題、原爆被災者問題、在日朝鮮人問題などに着目して、劣悪な環境下で苦悩する底辺群像を次つぎ描き出した。資質的には長篇作家で、生涯の仕事量も厖大だ。
 早熟な独学少年だった井上は、大学の文学部で学んだタイプとはおよそかけ離れた、労働現場から叩き上げて、のし上った作家だ。日本共産党に入党したというよりも、九州の炭鉱で「ひとり共産党」を実践していたところを、現実の日本共産党が採り込んだといった恰好だった。しかし規律第一の党におとなしく馴染むはずもなく、出世作『書かれざる一章』は内部からの党批判として話題となり、やがて離党することになる。とにかく戦後(昭和後半)日本文学にあって、声の大きなキカン坊といった作家だった。

 時代の証言として、井上光晴文学が若者から読まれ、再評価される日が来て欲しい。が、この豪快に荒ぶる、ごつい文学を再読する力は、私には残っていまい。『井上光晴作品集』『新作品集』『第三作品集』計十三巻(いずれも勁草書房)を古書肆に出す。
 エッセイ集『幻影なき虚構』、詩集『荒れた海辺』、戯曲集『蜘蛛たち』も出す。『明日』の単行本は二冊あるので、一冊を出す。
 北村 耕と高野斗志美によるそれぞれの『井上光晴論』を付けて出す。政治党派的視点が色濃い論考は、両著が刊行された一九七二年を想えば当然だが、作者歿後の現在から振返って眺めようとすれば、また別の井上光晴論が必要となろう。

 『作品集』第一巻が二冊あるので、一冊は残す。『書かれざる一章』や初期の力作『虚構のクレーン』が収録されてあるからだ。
 『地の群れ』単行本も残す。長崎県佐世保を舞台に、世間の眼から隠れるように身を寄せあって住む原爆症患者たちと、被差別地区の住民たちとが、たがいに差別しあい反目しあう状況下で起きた、痛ましい事件の顚末である。今再読しても、井上光晴の特色が濃密に圧縮された傑作で、アートシアター系で公開された熊井 啓監督による映画化作品も圧巻だった。
 『明日』も一冊は残す。昭和二十年八月八日(投下前日)の長崎市の庶民生活をオムニバス風に淡々と描いた小説で、黒木和雄監督による映画化作品も傑作だ。映画との関係で、読み返したい気が起きるかもしれない。

 『狼火はいまだあがらず』(影書房)を残す。副題は「井上光晴追悼文集」と銘打たれ、諸家が故人を語った追悼文・回想文・人物論・対談などが八十篇ちかくも収録されてある。晩年の井上は、在野の魂をもった後進の育成に熱心だったが、草の根運動的な各地の文学学校の受講生らによる、井上作品のグループ研究も収録されてある。骨を折って広く井上作品を再読せずとも、その文業を懐かしむだけであれば、これ一巻にて足りる。
 この作家の全貌を眺め渡してやろうとの、若き日のわが野心は、果されぬままに了ることとなった。