一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

初稿料

井伏鱒二(1898 - 1993)

 どんな大家も、初めて手にした稿料というものは、不思議と憶えているものとみえる。

 井伏鱒二尾崎一雄の対談(『井伏鱒二対談集』新潮文庫、1996)となれば、早稲田文学部の昔ばなしである。さらにはその後の同人雑誌時代であり、新進作家時代の武勇伝や貧乏ばなしだ。
 恩師の面影や共通の友人知人にまつわる消息など、噛みあう話題は山ほどあるのに、ご両所が学生時代に袖すり合せた機会は、一度もなかったというのも面白い。井伏が数年早く入学していたこともあるが、それだけではない。どうやら縄張りが異なっていたと見える。

 大隈講堂前から正門を通って大隈銅像への東西道と、南門から演劇博物館へ通じる南北道とが、キャンパス中央で十文字に交差するのが、キャンパスの基本骨格だ。
 南門から北向に入った左手が、私の学生時分には(多分今もさようだろう)法学部だったが、ご両所の時代は、そこが文学部だった。道を挟んだ右手は図書館だったが、今は会津八一記念館というものになっている。どちらも十文字の角に面した、キャンパス内の銀座四丁目である。

 南門前には、いずれも古手の広文堂書店とレストラン高田牧舎がある。対談に登場する下宿屋やおでん屋や居酒屋などを辿ってみると、どうやら井伏鱒二は南門を出ると左へ歩いて東と北、大隈講堂裏から鶴巻町、江戸川橋つまり椿山荘や細川邸の崖下方面、現在の都電終点から面影橋・高戸橋方向が縄張りだったと見える。
 対して尾崎一雄は南門を出ると右へと歩いて南と西、大隈家ご用の蕎麦屋三朝庵がある馬場下町交差点、穴八幡があり道を挟んで尾崎が第一期生だった付属高等学院、現在の文学部がある。そのあたりから西へとだらだら坂を登ってグラウンド坂上へ出て、戸塚方面(高田馬場駅方面)へ歩けば、尾崎がさんざん借り倒した大観堂書店がある。そちら方向が縄張りだったと見える。
 ご両所とも下宿代滞納やいざこざなんぞで、居を転々としているうえに友達も多いから、重なっている方面もある。夏目坂から喜久井町若松町方面だが、後年考えればよくも出遇わなかったと感心するくらいだ。

 ご両所とも初稿料を憶えていた。尾崎一雄は同人誌に出して好評だった作品に手を入れて、二十四枚の作品を『新潮』に出した。一枚二円五十銭とのこと。
 井伏 あのころ二円五十銭はすごいね。
 尾崎 高いですよ。
 井伏 僕はあの月、中村武羅夫さんなんかがやっていた雑誌……。
 尾崎 「不同調」。
 井伏 あれに出した。嘉村礒多が原稿料を送ってくれた。
 尾崎 あれは安い。僕も随筆を書いたが……。
 井伏 十一円
 尾崎 一枚?
 井伏 全部でだよ。それで僕は伊万里の火鉢を買って、炭を買ってきてあたった。
 尾崎 それは温かかったろうな。
 のちに夫人となる女性と、井伏鱒二は火鉢にあたったそうだ。一本立ち作家となって荻窪に居を構えてから、伊万里焼の火鉢は割れたという。
 二円五十銭の二十四枚、〆て六十円の大半を、尾崎一雄は博打で取られたという。ご両所の持味が匂い立つ、佳い噺だ。

 なん日か前、ふとした出来心で、アニー・エルノー『シンプルな情熱』という翻訳小説を読んだ。フランス人の婆さんがノーベル文学賞だというので、どんなもんだかと思ってしまったのだ。
 妻子ある外国人の男と情交関係にある主人公が、こんなことしていても末は知れてると想い沈む場面で、映画では婚姻外の恋愛の結末など不幸に決ってると慨嘆する。その映画の例として、ベルトラン・ブリエ『美しすぎて』と出てきて、私は一驚した。
 じつに久かたぶりに、その名を視た。映画事情に暗い私は、トリフォーやゴダールがブームを過ぎても撮り続けていることは知っていたが、あの元気一杯の跳ねっかえりドキュメンタリストが、その後も監督業を続けていたなんて、知るよしもなかった。

 私の初稿料は、ブリエの処女作だったドキュメンタリー映画ヒットラーなんか知らないよ』の感想文である。『映画評論』という雑誌に載った。大家じゃなくたって、憶えている。
 後年の私は、大切に保存する自作は身銭を切って刊行した同人誌に書いたものだけで、銭金と交換で売ってしまった原稿については、その場でいったん役割を了えたと考えて、切抜きなどをろくに整理しない売文渡世だった。その時分に書いたものを見せろと急に云われても、はなはだ困る。が、そうなる前は、小さな埋草記事や、同人雑誌評で激励していたゞいた記事などまで、切抜いてスクラップしていた。その古いスクラップ帳の第一ページ目が、このブリエ評である。

 当時『映画評論』は、ライバル誌『映画芸術』と並んで、先鋭な映画作家と映画評論家の溜り場だった。隠れ家とも、さらに巣窟とすら称してもよろしいほどだった。『映画評論』には素人の映画感想を投稿できるコーナーがあって、無鉄砲にも私は、そのコーナーへ投書したのだった。
 佐藤重臣さんが編集長だった。『映画芸術』のほうは小川徹さんが編集長だった。

 割当ては五枚で、投書が採用されると、五百円いたゞけた。現金書留の二重封筒を振ると、カチカチ音がした。源泉徴収とかで、中身は百円硬貨四枚だった。わが初稿料である。
 記事の最後に筆者の身分明示の一行が、編集部により添えられている。「東京豊島区 十九歳 無職」となっている。たしか自分で「無職」と名乗った記憶がある。受験浪人中だったのだ。