一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

再読優先順位



 かつて学恩を受けた本だ。その後、再読した憶えはないのだけれども。

 片岡良一は、日本近代文学をアカデミズムの立場・態度・手法によって取扱った第一世代の研究者のひとりと、今日では位置づけられてあるようだ。無手勝流体当りで本に対していた学生には、さようなことを思う余裕も力量もなかった。『近代派文學の輪廓』(白楊社、1950)という書名に惹かれて古書店の棚から抜出し、目次を繰ってみて、横光利一および新感覚派について書いてあると判り、躊躇なく買ったのだった。
 今からは想像すらできまいが、横光について冷静に知るのはそうとうに難しい時代だった。『定本 横光利一全集』(河出書房新社)が刊行されるのは、ずっと後年のことだ。旧い改造社版『全集』も、めったに古書店の棚では視かけなかった。本がなかったわけではなかろう。おそらく古書店の倉庫にはあって、店には陳列されなかったのだろう。それほどに売れなかったのだ。私は今も、そのころ出逢った改造社版で読んでいる。清水の舞台から、といった気分で、全巻揃いを買ったのだった。

 文学史にあっては新感覚派の代表作家とされ、人と時代とを直接に知る信奉者の回想録類では「文学の神様」と崇められていた。にもかかわらず、私がイロハを習いその影響下に育った戦後文芸批評の圏内にあっては、昭和文学の激流に呑まれて身を沈めた無残な人のように云われていた。大口叩いていっとき文名を高めはしたものの、化けの皮が剥れて末節を汚したとまで云う人があった。あまりの落差ではないか。本当のところはどうなのだ。
 横光に注目する学友や先輩の姿はほとんどなかった。近代文学の恩師がたも、昭和の早稲田先達を語られるさいには尾崎一雄井伏鱒二丹羽文雄石川達三を語っても、横光利一について多くはおっしゃらなかった。じつは私の勉強不足で、横光研究の第一人者である保昌正夫先生がおられたのだが、他大学に在籍され、早稲田へは他学部に非常勤でお越しになるていどで、文学部学生には存じあげる機会もなかった。のちに知ったが、保昌先生は第一人者というよりも、その時点では日本でほどんど唯一の横光利一研究者の感があった。

 さような時代背景のなかで、横光利一を中心に据えて論じてあるらしい『近代派文學の輪廓』と出逢ったのだった。
 著者は偉い学者らしい。だがお調べの成果でもって図形を描いてゆくような論述ではなかった。現場の文芸批評家のごとくに、細部や作中人物内面へと丹念に食いさがることをとおして、作家の創作意図を洞察してゆく。納得し、満足した。
 法政大学の教授だった人だそうだ。小田切秀雄の恩師の一人だという。なるほどね、と思った。片岡良一という名を覚えた。
 『片岡良一著作集』全十一巻(中央公論社、1979-80)のうち四冊が手許にある。古書店を歩くさなかに、ふと眼に着いたり気が向いたりして拾っておいたバラ本である。読む体力・気力さえあれば、今でも面白く読めるのかもしれない。が、余生と再読優先順位とを勘案すると……。片岡良一を、古書肆に出す。


 『近藤忠義 日本文学論』全三巻(新日本出版社、1977)が手許に揃ってある。
 近藤忠義も法政大学の教授だった人だ。江戸文学の学者だが歴史社会学の視点から、上代以降の日本文芸全体を視野に収めようとした人であり、初期の明治文学をも論じた。戦時中には、治安維持法違反容疑で検挙されてもいる。この人も小田切秀雄の恩師の一人だ。
 戦後批評を考えるには、かような学者の業績にも眼を通さねばと志して、これまた古書店で一冊づつ買い揃えていったものだが、拾い読みした限りでは、べつだん影響を受けるまでには至らなかった。
 近藤忠義を、古書肆に出す。