一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

冬の身


 準備は整いつゝあるようだ。鳥たちに提供されるのは、さて年内だろうか、年明けてからだろうか。

 明日は父の命日だ。昨年十三回忌を済ませたから、これで満十三年経ったことになる。一市井人につき、墓所を訪れてくださるかたなどめったにないが、それでもごくたまに、父か母かを懐かしがってくださっているかたもないではなく、時が経ってからひょっこり、お詣りさせていたゞきましたとご挨拶され、かたじけなくも面目ない想いをすることがある。
 だから命日の前日か、遅くても当日早朝かには、ざっとした掃除をかねて墓参りしておかなければならない。

 階下の流しでも階上の台所でも、食器洗いの新スポンジをおろしたとき、使い古しを捨てずにとっておいた。墓石磨きに使って、そのまま墓地内の共同廃棄籠へ投じてくる覚悟である。
 あとはつねのコース。花長さんで花束を一対。今日は旦那さんと女将さんと、二人お揃いだった。金剛院さまでは、まず手桶に水をいたゞき、花束を差す。庫裡へご挨拶して、線香をいたゞく。バーナーで火をつけてくださる。自分でマッチなりライターなりを使うと、風向きによっては往生するのだが、これなら一瞬だ。
 墓前には案の定、どなたかがお供えくださった線香の燃えカスが残っていた。ロウソクを立てて、線香に点火されたと見える。踏石にいくつもロウソクの滴り跡がこびり着いていた。

 あたりに水を打ち、とりあえず花と線香を供える。掃除を先にすると、その間に線香がどんどん短くなってしまうから、やむなき手順前後だ。
 用意のスポンジ登場。墓石の表面はさっと拭うだけで足りる。風雨の方向によるのか、汚れのひどい側面とさほどでもない側面とがある。積重ねられた墓石のつなぎ目部分は、ことに汚れがひどい。そのぶん、念入りに磨けば効果明瞭だ。一番汚れているのは、彫りこまれた文字の窪みである。時間をかければもっと磨けそうだが、ほどほどで妥協した。スポンジたちも擦り切れて、ぐだぐだになってしまっている。花束の紙に包まれて、大往生だ。

 墓地からは、隣接する神社の本殿が真裏から見える。神さまを背後から眺めてもよろしいものかどうか、知らない。が、とにかく見える。
 なぁに、昔は拝殿脇に立入禁止の柵などなかったから、悪ガキどもは裏へ回ったり縁の下に隠れたりして遊んだ。六十五年ほど前の、悪ガキたちである。
 拙宅墓所が済めば、あとはご生前を存じあげたかたや、両親がお世話になったかたのご墓所に、軽くお詣りして歩けば、いともお手軽なわが墓参は終了だ。
 戻りの道すがら、本堂と大師堂(札所)と六地蔵と、ミニ四国巡礼大師像と旧道標を擁する不動堂とに、ちょっと立寄って掌を合せるだけだ。

 そのまえに観音さまだ。墓地から本堂へと戻る途中に巨きな塚があって、てっぺんに観音立像が墓参者を出迎え、見送っておられる。墓守りする子孫が途絶えたり、遠方へ移ったりして、縁が切れてしまった仏たちを合祀する、いわば無縁仏の合祀塚である。
 私は、つまりはこゝへお世話になる。