一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

穴の研究



 自分の手でできることなんぞ、たかが知れているけれども。

 降った枯葉を掃く季節だ。横着して二日に一度だ。雨天やあまりに寒くてやる気が起らぬ日もあるから、三日か四日に一度となることもある。
 まず玄関周りの程好き場所を視定めて、スコップで穴を掘る。二十から三十センチ平方、深さ十五から二十センチといったところか。
 拙宅前から東へ二十五メートル、信号の十字路までの道端に吹き寄せられたぶんを掃く。すでに住人は立ちのかれて、緑の金網が張りめぐらされた空地の前だ。そこまでしなくてもと、云ってくださるかたもあるが、拙宅の桜の葉がほとんどだ。
 次に拙宅前と、そこから西へ十メートル。道に面した拙宅ブロック塀の道端だ。樹木たちの足元である。どういう風向きか、西に隣接するコインパーキングの側には、落葉が吹き流されてゆかない。

 世間さまへの申しわけはそこまでで、あとは敷地内。駐車スペースというか、拙宅設計の凹み部分だ。
 三日分溜めるようものなら、かなりの落葉量となり、穴は一杯となる。踵で踏んづけて圧縮する。わが家の地産地消。地中から吸上げた養分のいく分かでも、地中へ還っていたゞこうとじゃないかと、穴を掘るようになった。
 お隣ご近所が寝静まった零時から一時、あるいは明けがた五時から六時、そんな作業をしている。

 前々夜の埋め跡から五十センチずらして次の穴を掘るが、今季九個目の穴ともなると、玄関周りはおゝむね掘り返してしまった。掃き取った場所から穴まで、枯葉がこぼれ落ちぬように、塵取りを箒で押えながらなん回も往復するわけだが、夜毎にわずかづつ距離が長くなる。当然ながら、昨年も掘った場所だ。
 こんなことを始めたころは、なにも考えずに落葉だけを埋めていた。純粋成分の堆肥だと悦に入ってすらいた。腐蝕や分解を早めるためには、地中生物や細菌が活動しやすいほうがよろしいはずと、あたりまえのことに思い当って、工夫するようになった。

 掃き取った場所から穴まで四往復する夜があるとする。二往復したところで、すこし土を掛けてやる。また草むしりや剪定したさいに、あたりに積上げておいた小山が、視るかげもなくカラカラに乾き切った枯草枯枝となっているから、折ったり砕いたりしながら一緒に埋めてやる。都合の好い生ゴミでもあれば、さらに好い。で、もう二往復、落葉を運ぶ。土を掛ける。盛上るから、地下足袋の底で徹底的に踏みつける。まだいくらか小高いが、雨に数回打たれるうちには平らになる。

 一昨夜と今夜掘ったあたりは、一月後半に、正月の玉飾りや裏白や、神棚から降ろした去年の注連縄なんぞを一緒くたにして、細かく切り刻んで埋めた場所だ。まだ早いかも知れぬと一瞬危惧したが、案ずるに及ばず、スコップはサクサク入り、すっかり土に還っていた。玉飾りの橙に切れ目を入れて投じ、たまたまあったレモンの皮なども放り込んでおいたのが、発酵、腐蝕、分解を早めてくれたのかと思う。草むしりや剪定の残骸を土に還すには、果物の皮だの芯だのは、ほんとうに助かる。
 とはいえこの夏に、ネズミモチの古根と草むしりの成果とを、元村君からいたゞいたメロンの皮と一緒に埋めた場所は、いくらなんでもまだ早い。その場所まで、あとわずか数メートル。桜の葉は、峠を越したとはいえ、まだ降る。早晩べつの方角に穴の候補地を求めなければならない。

 こんなことして、いったいなんになる。草木の残骸や落葉など、四十五リットルゴミ袋に詰めて、回収に出してしまえば済むではないか。自分の手で始末できる程度の微々たる量を土に還したところで、それが敷地にとって、いや地球環境にとって、いったいなんだというのか?
 そりゃそうだ、理性的に考えれば。だが私は理性的な人間ではない。一文にもならぬ文学や芸術について、この齢まで考えてきた男だ。いくらか売文はしたけれども。
 いや違う。そんなことじゃない。こういうことが愉しいのだ、おそらく。これが愉しいと他人さまがご提供くださったことなどを、愉しんでなんになろうか。自分自身で設定した、せこくいじましい、けち臭くちっぽけな愉しみ。そういうものこそが、ほんとうの愉しみなんじゃないだろうか。