一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

グローバル・スタンダード

宮田雅之『銀座の女』(部分)

 グローバル・スタンダートということを持ち廻る人を、信用しないことにしている。

 日本人は概して、世界いずれの国の人びとよりも、自己主張が苦手だという。本当だろうか。人前で議論・論争することが下手くそだという。本当だろうか。
 国民規模で改善すべく、初等中等教育においてディベートの練習を強化しなければと、力説する人がある。一理はあるが、私は疑っている。方針が間違っていると云うのではない。初等中等教育のなかで、それができるだろうかと疑っている。

 議論・論争するには、自説への確信が不可欠だ。わが信念を他人にも理解して欲しくて論争するのだ。そりゃ稀には、自説に一抹の不安が残るために、あえて他人と意見交換してみたい場合もあろう。しかしその場合でも、不安な点を除けば信頼がおける程度にまで自説が固まっていなければ、論争などできるものではない。
 ところが教育現場では、自説への信念如何ではなく、相手の論理矛盾を発見し、わが論理構築の妥当性を証明する手管を磨くのだという。実地教材として好都合な意見対立など、そうそうざらにはないからだ。
 海のキャンプと山のキャンプではどちらが有意義か。熊と虎とが喧嘩したらどちらが勝つか。熊と虎とは喧嘩なんかしないもん、という真実の主張は、あらかじめルール違反と限定されてあるうえでだ。
 これを論争術と云うか。白を黒と云いくるめる、思想とも人間性とも無縁の空疎な雄弁術をソフィストに視て、ソクラテスは一つひとつ論破していったのではなかったか。

 「雄弁は銀、沈黙は金」では世界に立ち遅れるですと? 日本の常識は世界の非常識ですと? グローバル・スダンダードですと?
 たしかに学術における論理構築力も、ビジネスにおけるプレゼンテーション能力も、国家間外交における駆引きも、論争力あるほうがよろしいに決っている。が、それもこれも自説への信念あればこそだ。信念なきところに、論争術など成立するはずがなかろう。そして論争術を必要とする分野でひとかどの地位に就かれるほどのかたがたであれば、独自の論争力を磨いておられることだろう。
 日常生活において論争力など必要とされない多くの庶民は、世界の国ぐにがいかにおっしゃろうとも、遺憾ながら日本人とはかような国民ですと、応えておけばよろしいのではないだろうか。自分を棚に揚げたまゝグローバル・スタンダードを口にして、他人を不安がらせる人は、たいてい利権絡みか売名と相場が決っている。

宮田雅之『薔薇夫人』(部分)

 入浴施設やプールなどには「タトゥー・入れ墨お断り」の場所があるそうだ。反社会的組織の構成員にしばしば視られた彫り物や、時代劇における島帰り(前科者か脱獄者)の入れ墨に対する先入観が、多くの日本人にある。彫り物に不快感や恐怖感を覚えてしまう利用客に配慮して、「お断り」の措置をとっているのだろう。
 ところが世界から届く映像を観ると、街行く一般男性だけでなく、女優さんやファッションモデルさん、スポーツ選手にいたるまで、タトゥーを身に帯びている人も少なくない。衣装によっては人目も憚らずの状態となっている。信仰事情もあるのだろうが、多くはファッションとしてお洒落の一環として、墨や紅を入れているようだ。
 そこでまたぞろ、日本は遅れている、閉鎖的だ、グローバル・スタンダードでは、とラッパが吹き鳴らされる。

 大きなお世話である。日本の入れ墨文化には、長い年月を経たそれなりの歴史も事情もあったのだ。
 加えて、「身体髪膚これを父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始めなり」(『孝経』)との教えがあって、さすがに生存者は少なくなってきたことだろうが、行儀作法の基本中の基本として暗唱させられた世代が、かつて長きにわたってあったのだ。今でも「タトゥーなんぞ入れると、お父さんお母さんが泣くよ」という台詞が聴かれるのは、その名残である。文化伝統の改変は容易ではない。一朝一夕になどゆくはずがない。

 グローバル・スタンダードにおもねる必要なんぞこれっぽっちもない。だからといって、タトゥーと視たら入場禁止というのでは、いくらなんでも時勢に合わなかろう。
 「入場はできます。が、日本には独自の文化伝統がございます。好奇の眼差しを向けられるかも知れないと、あらかじめご承知のうえでご入場ください」くらいのところではないだろうか。
 施設経営者に限られた問題ではない。来日外国人旅行者がたに対しては、各旅行代理店をとおして周知徹底させていたゞきたいし、外務省ほか政府機関からの世界向け広報でも、徹底させていたゞきたいものだ。