一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

式年鍋替乃儀


 今年も、年越しの行事が、おごそかにとり行われた。

 過る一年間、わが主食たる粥を炊いてくれた鍋(左)は、常よりも丁寧に底を磨かれて、これより一年間の休息に入る。一昨年活躍の鍋(右)が一年ぶりに登場。今年一年の労働に入る。拙宅年中行事、鍋替えの儀である。

 拙宅ガスレンジは老朽化による傾きと、一部目詰まりとが原因で、部分的に不完全燃焼の炎が立つ。ために毎日毎回、底のどこかかに煤が着く。金属タワシでこする。
 底と側との境をなす曲線部分では、陶器の白い表面に線状の傷が付き、地金の色がかすかに覗いてきている。が、琺瑯というものは、ここからがしぶとい。めったなことでは変形したり使い勝手が悪くなったりはしない。

 愛用のフライパンや鍋や玉杓文字など、鉄製かステンレス製かアルマイト製の道具たちは、経年と熱のために、それぞれ程度の差はあれど、おしなべて変形している。蓋が合わなくなったり、分量に狂いが出たりしている。が、用は足りている。
 百貨店やスーパーの台所用品売り場で、使い勝手の好さそうはフライパンを振ってみたりはする。憧れる。が、買い替えはしない。今買えば、使い慣れたか慣れないかのころには、こちらの寿命が尽きる。
 合羽橋へは、もう何年も足を向けていない。観るだけで愉しい、遊園地のような場所だと、かつては想ったものだったが。

 調理器具たちはもちろん、炊飯器や冷蔵庫など家電製品にいたるまで、わが台所の戦士たちに、耐用年限を過ぎてないものなどない。私と同時に息を止めると覚悟してくれているんじゃないかと、思えるものたちばかりだ。
 私の生涯を超えてなお働き盛りでいてくれるものはと視まわすと、包丁と素性悪くない鉄をおごった中華鍋と、わずかの漆器類と、それに琺瑯鍋だ。スプーン、フォーク、バターナイフ類も丈夫だろうが、デザインの時代性があまりに強いから、古物とならざるをえまい。
 台所以外となれば、万年筆その他、まだまだあろうけれども。

 元日の計。ネット接続が頻繁に途切れるのを改善しよう。ルーターか本体か。顧問からよく教わらなければ。
 医者と歯医者へ通うようにしよう。密を避けろなんて脅かされて、引きこもっているうちに、躰はあっちもこっちもガタガタだ。
 身辺の道具たちに、君は最終的にどうしたいか、よく聴いてまわろう。暮しの道具たちの行く末に気を回そう。