一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

十七回忌



 金剛院さまの境内は、四季をとおして花色が絶えることがない。植栽がさように按配されてあるのだ。

 かと申して寺院境内にシクラメンというわけにもゆくまい。凍るような空気のなかでは、ツバキが普通だが、ごく目立たぬ場所にある。
 眼を惹くのはトサミズキだ。葉が出る前に花が咲くから、この低木になにが起きたのだろうと、驚かされる。奥まった塀ぎわに目立たぬ花を着けているのはロウバイかもしれないが、近づけぬ場所に植えられてあるため、寄って確かめることができない。
 今は大師銅像の足元や、無縁仏合祀の観音立像の周囲には、ハボタンが整列している。花ではなく葉色ではあるが、なまじの花よりも色鮮やかだ。

 今日現在もっとも眼が離せないのは、庫裏前のシダレウメだ。まだ一輪も開花していないが、ツボミは危ういまでに膨らんできている。わずかの陽射しか風かの加減で、ほろりと一輪開花してしまわぬものでもない。境内を散歩コースになさっておられるご近所さんは、ここ数日要注意である。
 このシダレウメが一杯に花開くころには、参道を挟んで向い合うハクモクレンも、開花することだろう。

 とりたてて花壇仕立てとなっているわけではないが、どこになにが咲くかはすでに想定されてあるらしく、アブラナのような葉の軟らかい苗が一画に植えられた。急速に伸びてくるのだろう。牡丹は例年同様の一画に咲く予定と見え、葉も芽も見えぬ裸の幹がいく本も棒切れのように、地上数十センチの高さに突き出ている。

 母の命日である。十七回忌に当る。親戚縁者に声掛けしての法事などは、行わない。遠方からの参列は面倒だろうし、どの親戚も拙宅より大家族なわけだから、返礼として後のちいく度も気を遣わせてしまうことにでもなっては気の毒だ。母も、さようなことは不本意とする人だった。
 母十七回忌と父追善と、金剛院さまには二本の塔婆をお願いして、私独りの法要である。三、七、十三回忌も、さように執り行ってきた。気は心。いつもの墓参りとは少々異なるロウソクと線香とを用意した。

 花と塔婆を供えるために昨日も詣でたのだが、陽射しは好かったものの風が少々あった。今日はまたも好天に恵まれたうえ、風もほとんどない。まずまずの法事だった。
 とはいえ陽気は一本道ではない。今週はまた寒くなるそうだ。春はそう簡単には来ない。玉葱とカボチャとブロッコリーを買って帰る。