一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

此岸の花


 先頭の第一花。昨年の記録より、一週間ほど遅い。それに、少々気がかりもある。

 彼岸の入りだ。池袋へ出て、お供えの品を調達し、とって返す。花長さんはおかみさんのほかに女性がもう一人。娘さんだろうかお嫁さんだろうか、それとも繁忙日のみお手伝いの臨時店員さんだろうか。
 金剛院さまでは、本堂も大師堂もご開帳だ。庫裡お玄関の格子戸も開け放してある。私もたいそう気の利かぬ仕儀だったが、時あたかも正午をやや回った時分どき。にもかかわらず式台から上った廊下には、若住職が正座しておられた。私のような自分勝手都合の供物依頼や線香所望の参詣者も少なくない日につき、待機しておられたのだろう。この日のお寺さんでは、うち揃っておちおち昼餉の卓を囲んでなどいられぬのだろう。交代制にちがいない。


 諸仏へのお詣りは後回しに、まずは拙家墓所へ。掃除も石の管理も行届かぬ、最小単位区画の墓である。平成元年の建立だから、三十年少々となる。拙家墓石は御影石だが、鞍馬石であれば、かすかに色の変化が見えてくる年ごろだろうか。
 現代の墓石用石材は、おおよそ御影か鞍馬である。御影には経年変化が来ない。管理にも掃除にも手が掛らないのが利点だ。そこへゆくと鞍馬は色が経年変化する。磨きたてはかすかに緑色を帯びた無地の黒灰色だ。歳月とともに緑色が脱けて、黒灰色となる。梨地のような細かい柄模様がうっすら顕れてくる場合もある。経年変化のムラで、過渡期の特色である。三十年かかるか五十年かかるかは、知らない。
 百年も経つと、艶が消えて、これぞ墓石というような深く濃いねずみ色となる。有名霊園にあって、明治の元勲だの文豪だの、また伯爵だの男爵だのと冠辞が付いた、これぞ墓というような、渋くどっしりした墓は、たいてい鞍馬だ。

 墓石が近代化、高級化する以前つまり江戸時代は、大谷石が主流だった。道端の道祖神や地蔵像や、神社の狛犬など、古いものは鼻が欠けたり腕がもげたりしている。大谷石は年を経てもろくなるのである。

 絹目と称ばれる柄の細かい御影の上物であれば、値段は鞍馬の良品とさほど変らない。現代では圧倒的に御影が人気で、新規の墓石はほとんどが御影だ。
 石材をどうするかとの家族会議があった。私は口をつぐんでいたが、内心では鞍馬を望んでいた。石材店の親爺さん(先代)も「自分の墓でしたら、鞍馬にしますがね」と、控えめにおっしゃった。父は迷った末に、御影を指定した。それから三十年少々が経ったということになる。


 拙家および所縁あるかたがたの墓詣りが済めば、あとは定常コースだ。昨年の今日の日記には、定常コースなるものが書かれてあると思われるので、また書くのは気乗りがしない。昨年の今日と行動がまったく同じというのは、めでたいと申すべきか、腑甲斐ないと申すべきか。
 不敬を承知で、ご開帳の大師堂を覗き観た。いつも新品かと視まごうばかりの遍照金剛と脇侍だ。御府内八十八か所札所巡りの第七十六番札所である。

 たいへんに気がかりなことが、ひとつある。金剛院さまご境内にも、彼岸花は咲いていて、しかも拙宅同様に珍しい白花品種だ。ご境内の別箇所には赤花も咲くけれども。
 ご境内では、矮性で葉の細かいツツジが絨毯のように敷詰められ、長い茎が特徴の彼岸花はそこから首を出すかのように咲いている。これが正しい咲かせかたなのだろうか。花自身にとって好ましい咲きかたなのだろうか。だとすれば此岸の、下々の娑婆たる拙宅では、という問題である。

 拙宅の環境にあっては、矮性ツツジなど望むべくもない。例の無遠慮三羽烏ドクダミ・シダ・ヤブガラシに周囲を取巻かれ、日ごろは姿も隠されてある。楽にさせてやろう、目立たせてやろうとの親心のつもりで、周囲の草むしりをしてきた。だが下草に取巻かれることのなくなった彼岸花は、風に倒されやすく、雨に打たれて身も曲りやすくなる。
 ほんらい足腰や胴回りを他の植物に取巻かれて保護され、首を伸ばして花だけが頭を出すほうが快適なのだろうか。だとすれば私は、無知な独りよがりから、彼岸花を虐待してきたことになる。
 花なき季節の葉は細く、目立たぬように地面近くに密生する。リュウノヒゲの仲間みたいに。ある夜、突然目覚めたように花を着ける茎が伸びてくる。文字どおり、一夜にして一気に伸び出してくる感じだ。つまり彼岸花自身の習性は、というより性向は、ふだんは他の植物の陰に身を隠して、いざここで花っ、という時に一本勝負で首をもたげてくるのだろうか。
 だとするならば、私はずいぶんと心ない所業に手を染めていたことになる。拙宅敷地内にて今朝開花したのは先頭走者で、以下第四陣五陣ほどが控えているのだが、遅かりし。いずれも周囲の草むしりは済ませてある。はてさて、目下気がかりの件である。