一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

かまけて過す



 日記を繰ってみると、拙宅老桜の昨年開花宣言は三月十九日だった。今日つぼみを観た感じでは、今年はもっと早いような気がする。だからどうだという噺。私になにかできるわけでもあるまいし。

 ニューヨークの建築・芸術批評家にして広く文明批評家でもあったルイス・マンフォード(1895 - 1990)は、モダンアートをかように定義した。過去二世紀ほど芸術家は、機械に反逆して精神の自主性を宣言してきた。ところがモダンアートは、機械と技術によってもたらされた、非人間化のあからさまな表現であると。
 微妙なのはその先だ。さようであるにもかかわらず、ある種のモダンアート作品は、自分を惹きつけてやまない。つまり文明批評と芸術愛好とが自己矛盾を起していると告白しているわけだ。
 このジレンマを谷川徹三は、プラトンが『理想国家』から詩人を追放せざるをえなかった内的動機に重ね合せて読取っている。

谷川徹三『芸術の運命』(岩波書店、1964)

 マンフォードの所説におおむね同感して紹介しつつも、若干の違和感を表明し、さらに事寄せての関連する広がりにまで言及したのが、『芸術の運命』一巻だ。
 技術の進歩や、科学分野での新発見による認識の変化や、政治体制の変革などが、芸術に影響を与えぬはずはない。けれども芸術を別物に変化させるほどの力までは、あるはずがない。ピカソが吐いたとされる啖呵を引用している。「パン屋が共産党員になったからって、パンの焼きかたが変るもんですかい」

 モダンアートへの一抹の危惧を表明する一方で、谷川は階級視点による芸術観にも疑問を投げかける。
 モダンアートの「追随者達が、新しい芸術を新しいというだけで有難がり、そこに芸術の進歩を見ようとしているのを迷蒙と考えると共に、政治革命に成功した国の人達が、政治や経済におけるその達成に鼓舞されて、それに同調するだけの芸術に、無条件に芸術としての権威を与えようとしている態度に納得できぬ」としている。
 そして芸術は「芸術独自の法則に従って展開するもの」とし、「時代の進展に伴う進歩なんてものはないし、従って如何なる時代にも唯一の正しい芸術的立場なんてものはない」と結んでいる。

 執筆は昭和三十六年(1961)、スターリン批判が始まってまだ数年。社会主義の理想が色褪せてはいなかった。前年には日本でも、巨きな政治運動のうねりがあったばかりだ。いっぽうモダンアートについての理論も実作も、まだ出揃ったとはいえず、それに海外作品も十分に紹介されたとは申せぬ時代だった。
 谷川所見を今読めば、ずいぶん腰が引けた、あちこちに遠慮した論と読まれかねない。だが当時としては、かなり踏込んだ力強い論だった。私は年端がゆかなかったこともあって何年も遅れて、昭和四十五年(1970)頃、これを読んだはずである。それでも眼を啓かれた思いがしたもんだ。

 半世紀あまり経った。人間の正体、本性、煩悩、野心、欲望の前には、社会主義の理想なんてものはあまりに不備が多かった道理は、あからさまになった。理念は悪くなかったかもしれぬが、実践する人間性が貧弱過ぎた。
 モダンアートのほうは、鼻持ちならぬ自己中心のエリート意識や、商業主義からの誘惑に抗し切れぬ拝金欲求により、通俗化したり堕落したりしていった。
 今では、階級思想の原理主義や、モダンアート本来のメッセージ性を、口にしようものなら、時代が見えない偏屈だの融通が利かない石頭だのと罵られ、仲間外れにされそうである。年寄りゆえにやらねばならぬことも、きっとあるにはちがいないけれども。

 この齢で、仲間外れにされたところで、さほど痛痒を感じなかろう。今までだって似たようなもんだった。程度が増すだけのことだ。だが罵られるのは嫌だなあア。だいいち気分が悪い。
 放っといてもらうには、やはり日々の関心事にかまけて、おとなしく開花宣言を指折り数えて過すほうが無難だ。