一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

雨はどこから


 歳月を経ても、この人の唄の力が衰えないのは、詩の力のゆえだと思っている。

 炊事だの洗い物だの、台所作業の BGM としては、古めのモダンジャズを繰返し流しっぱなしにしてある。ゴキゲンで解りやすい音、コールマン・ホウキンズ、ドナルド・バードウェス・モンゴメリーウィントン・ケリーなど。気分によっては、品があって邪魔にならぬ音、レイ・ブライアントビル・エヴァンスなどだ。原則としてヴォーカルは択ばない。どうしても耳が引っぱられて、手が疎かになる。
 毎日リピートしていれば、どうしたって飽きる。尖ったものも、たまには聴きたくなる。キース・ジャレットの「ケルンコンサート」も、ニーナ・シモンの声も、吉田拓郎や宇崎竜童や中島みゆきの声も聴く。が、いずれも BGM としては作業速度を落す。

 中島みゆき荒井由実とが、同じ年にデビューしてきたということが、私たちの年代にとってはかなり宿命的な事件だったのではないだろうか。私自身はユーミンさんにはうまくついてゆけなくて、中島さん一辺倒になってしまったが、以後今日までおりに触れて、彼女の唄には考えさせられ、刺激を受けてきたように思う。
 狭い台所へあれこれ持込めないから、CD ラックから一枚出したら一枚お蔵入りさせるほかないが、ここ数日は『 I Love You 答えてくれ』というアルバムをリピートさせている。
 「ボディ・トーク」という曲では「伝われ 伝われ 身体づたいに この心」と祈ったあと、「言葉なんて迫力がない 言葉なんて なんて弱いんだろう 言葉なんて迫力がない 言葉はなんて なんて弱いんだろう」と、慨嘆するように、また唄い捨てるかのようにリフレインされる。
 中島さんが言葉の無力を嘆いているわけでは、むろんない。ボディ・トークという主題をさような言葉で表現してあるのだ。

 言葉に表現できぬこの想い、なんぞと深刻な言いぐさを聴かされることがあるが、「言葉」「できぬ」「想い」などの言葉がなければ、人間はその胸中を自覚できたかどうか、怪しいもんだ。
 言葉とはコミュニケーションの道具であるとするのが言語定義の中学生レベルだとすれば、言葉とは論理的思考を組立てる、いわば考える道具であるとするのが高校生レベルだ。言葉とは感受性の表面につねに映っては移ろいやまぬ「印象」をつなぎ止め、定着させ、自分自身に自覚させるものとするようになって、ようやく大学レベルとなる。つまり言葉は感じる道具なのであり、それが骨身に沁みてようやく創作の出走地点に立つこととなる。
 詩人を目指すお若い友人たちから、詩作品を読んで欲しいと依頼されることがある。詩には疎いからと、ご辞退申しあげることにしている。長年にわたってさんざん興醒めさせられてきたからだ。念頭にある想像空間を言葉に移すべく、あっちからこっちから寄せ集めた言葉を、ずいぶん面倒臭い技法を駆使して組合わせてあるものが多い。いや、ほとんどがさようだ。考えついた満足と表現したい野心。それが悪いとは申さぬが、最初に感じた驚きはどこへ置き忘れてきたのか。感受性の鏡に映った最初の風景にたいする神秘的な驚きはどこだ。

 中島さんの同じアルバムに「昔から雨が降ってくる」が入っている。
 太古の昔、僕は池の畔の一本の木だったかもしれない、が一番。二番は、海の岸辺の一匹の魚だったかもしれない。A A´ B A´ の形式だから、三番は韻律が異なるのだけれども、僕は大きな恐竜だったかもしれないし、小さな恐竜だったかもしれない。四番は、この崖の先っぽに棲む小さな虫だったかもしれない。
 各コーラスの後半のリフレインは、一本の木にも、一匹の魚にも、大きな恐竜にも小さな恐竜にも、一匹の虫にも、等しくあの雨が降りそそぐ。僕は自分の正体を思い出す。雨は昔から降ってくる。懐かしく降ってくる。

 時空感覚においては、学僧により書かれた般若心経講義の書物となんら異ならない。エネルギー不滅論はアインシュタインにお任せするとして、仏法の基本とも云える物質不滅論である。そして万物流転論である。すなわち空即是色論である。
 それを中島みゆきさんは、昔から雨が降ってくるとなさった。雨が天から降ってくるのでなく、昔から降ってくるとした経典も哲学書も、どこにもなかったのではないか。だからこれは、詩なのである。
 一九七〇年代から現在までの、中島みゆき楽曲がいっこうに古めかしくならないのは、時代の空気を鋭敏に感じ取って再現したからなどではなく、根幹に厳として詩があったからだと、今さらながらの確信を繰返している。