一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ふつつかですが


 考古学では形式を問題にするが、歴史学では様式を問う。学生時代に、東洋美術史・文様史の教授から教わった。

 鳥インフルエンザの影響で、ビッグエーで玉子が買えない。棚にはお詫びの札が立てられてある。サミットストアまで足を延せば、商品はある。が、眼に見えて高い。
 極端な品薄で相場が上っているのだろう。どんな場合にも品切れを起さないことを優先したサミットと、「安売り」できなければ入荷を止めると決断したビッグエーとの対照ということだろう。
 流通卸し業者がたや大型小売店舗の仕入れ担当者がたによる最前線では、連日熾烈な戦闘や駆引きが繰広げられているのだろう。実社会を知らぬ当方は気楽なもんだ。

 二十年以上も前だったか、玉子は一日一個との説が流行した。肉や魚より安く手軽に、しかも人体に摂取しやすい動物性たんぱく質だが、コレステロール値の関係で、摂り過ぎには要注意という説だった。なるほどさようかと思い、さして研究もせぬまま信じた。民間信仰のようなもんで、お地蔵さまや道祖神さまと一緒だ。いやそれよりもっとあやふやな、方違えや北枕を忌むに似た俗説信仰に似ているかもしれない。
 とにかくわが冷蔵庫は、玉子と納豆と牛乳とを切らしたことがない。固く念じているわけではないが、自然とそうなってきていた。それがここへ来て、優先すべきは形式か様式かとの難題が勃発したのである。

 かつて経験したこともない高価な玉子を買うべきか、より安価な動物性たんぱく質による代替を模索すべきかという難題である。
 形式とは、形の維持に示された心の作用だ。様式とは、意図の持続に窺える精神的背景や条件である。玉子一日一個は、私の食生活の形式だ。が、同じ効果なら少しでも安価な食材を工夫すべきというのは、無収入老人にあるべき生活の様式である。
 サミットストアの未経験高価玉子の棚の前に立停まって、彩陶の幾何学文様や殷周青銅器の雷文について、考え直さずにはいられないのである。

 事実としては、まだサミットの玉子を買ったことがない。目玉焼なしの皿に、ウィンナを一個多く炒めたり、イワシ缶詰の小鉢にひと切れ余計に盛ったりして、代替させたことに無理矢理している。むろんこれで問題が解決したとは思っていない。食材の栄養素とは、そんな単純なものであるはずがない。
 定見を得て、対応策か代案を講じられるようになるまでには、まだ時間がかかりそうだ。そんなことをしてる間に、鳥インフルエンザ禍が峠を越して、旧に復するかもしれない。しかしコロナ禍の後遺症は旧に復するかたちではなく、アフターコロナ・ウィズコロナという時代を迎えたそうだから、鳥インフルだって楽観できたものではない。「玉子は家計の優等生」と云われた時代がふたたび訪れるかどうかは、まだ判らない。


 とりあえず大難回避のために、月並でも好いから少量多品目という、維持すべきわが様式のもう一条を貫くべく、煮物をひと鍋。人参とじゃが芋とを定常的に摂るのに、雁もどきは最良の相棒だ。さらに竹輪という顔触れでなん年もやってきたが、前回ふとした気紛れに、安い蒲鉾があったので竹輪の代りに使ってみた。危惧したよりも、はるかに美味かった。食感のアンバランスも面白かった。
 味を占めて、もう一度試行。最安値の竹輪よりわずかに材料費が上昇する。この点は様式的でない。ただしタイムサービスや消費期限間近の理由で、安い蒲鉾があるなら、噺は別である。
 そっちに気を取られて、じゃが芋の面取りをサボり、下茹でも一分ほど計算違いしたと見えて、煮崩れした。ふつつかなれど、自分で食うまでのことだ。