一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

太郎

太郎。

 数日前に、太郎が停まった。電池交換の時期だ。前回交換時も書き留めた憶えがあるので、日記を溯ってみた。2021年11月13日の記述だった。一年と五か月ぶりの交換だ。

 太郎との浅からぬ因縁や、太郎がいかに歴戦の勇者であるかについては、すでに書いた。ガラスフェイスは傷だらけである。文字盤はよりいっそう黄ばんできた。百貨店の時計売場では、すでに電池交換を拒否された強者である。
 「わたくしどもでは、このお時計の電池交換は、いたしかねます」
 高価そうなネクタイを締めた時計屋なんてロクなもんじゃないと、軽蔑した。
 そこへゆくとわが町の時計修理職人さんは、丁寧に電池交換してくださる。交換さえすれば、時は正確だ。太郎が動かなくなるか、私の寿命が尽きるか、こうなれば心中の覚悟である。おそらくは、私が死んだら、太郎も停まるのではないかと思っている。

 つちや時計店のガラス戸の前に立つと、店内には先客があった。昨夕閉店間際に電池交換をお願いし、併せて少し傷みが来てはいてもまだ保ちそうなベルトを、このさい贅沢して交換してしまおうと、太郎をひと晩入院させておいたのだった。勘定も済ませたから、今日は太郎を引取るだけである。
 先客は長引きそうな気配なので、往来からガラス越しに、ご主人に目礼しておいて、いったんその場を離れた。
 数軒先はサミットストアだから、買物を済ませる。米と梅干と冷凍餃子。
 思い立って銀行 ATM へも回る。明日明後日で三件も、人と会う用事がある。近年では珍しいことだ。少しは小遣いを手持ちしておこう。

 時計店前に戻ると、先客の買物だか物色だかは、まだ続いていた。祖母と孫らしい少年との二人連れで、ご主人による説明に耳を傾けながら、ガラスケースや棚から取出されたいくつもの商品を、ためつすがめつ視較べる様子だった。初めて腕時計を持つことになる少年への、お祖母ちゃんからの入学プレゼントだろうか。時計はどれ、ベルトはどれと、迷いは尽きぬらしい。
 ご主人と眼が合う。あい済まなさそうな表情で出てみえそうにされるので、こちらからガラス戸を引き開けて入店した。すぐに太郎を渡された。
 「オウオウ太郎、すっかり綺麗にしてもらって……」
 腕にはめてみると、ベルトの具合もちょうど好さそうだ。礼を申して退店しようとすると、
 「あァ、ちょいとお待ちください。(なにやらゴソゴソして)これ太郎のナニ。それにこれッと」
 時計用の保管ケースとガラス拭き用の布がセットになった小物袋。それにポケットティッシュやフルーツのど飴の小袋が差出された。のど飴はともかく、保管ケースは立派な商品だろうに。
 「そういうものがあるんですねえ、いかほどですか?」
 「いえいえ、お持ちください」
 「それじゃあんまり……そうですか、ではお言葉に甘えて、いただきます」
 帰宅の道みち、想った。待たせたとお気を遣わせてしまったものか、それとも時計に向って太郎と呼び掛けたことが、ご主人のお気に召したものだろうか。