一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

一難去って



 三日間ほどタローの姿が見えなかった。当然ながら、たいへんに不便だ。早いとこ出てきてくれないことには……。

 日々の暮しにあって身から離すのは、シャワーや入浴のとき、全裸で体重測定のときくらいなものだ。台所での水仕事や草むしりなど汗かき仕事の場合は、仕事の程度や陽気によってその都度の判断をしている。就寝中は身に着けたままだ。非日常的な場合としては、人前でのお喋りやユーチューブ収録などで、ストップウォッチ代りに手首から外して卓上に置くが、めったにないことだし気も張っているから、これまでタローが行方不明になったことはない。
 タローにかぎらず、眼鏡だろうがホルダー付きの鍵束だろうが、飲みかけのマグカップだろうが、手都合でふとその辺に置いたまま意識がほかへ移ってしまい、はてどこへ行っちまったかということは、毎日のようにある。が、暮しはよろづパターン化され、行動範囲もきわめて狭いから、慌てるには及ばない。暮しの跡を注意深くなぞってゆけば、一日ならずして発見に至る。タローについてもさようで、気に病むまでもなく、普通に暮してさえいれば、おォそこだったかということに、やがてなる……のが常であった。二日も三日もの行方不明は、いささか異変である。

 出てきた。寝床のなかから。そろそろ洗濯どきかと上掛けのタオルケットを大きくめくってみたら、シーツの上に黙って寝ころんでいた。こんなところにいやがった。安堵したが、解せない。かつて発見されたことのない場所だし。こんなところにいる経緯が思い当らない。シャワーを浴びに急ぐ夢でも観たのか。目的地を視失って、灼熱砂漠をあてどなく歩く夢でも観たのか。極限状況的に辛い行軍のさなかで兵卒は、なろうことなら自分の肌でも剥いでしまいたいとの幻覚に捕えられるもんだとは、田中小実昌さんの軍隊小説にあった。まさか私も、よほど寝苦しかったのだろうか。それほどの熱帯夜は記憶にないが。

 スーパーで買物中に、足を滑らせ尻餅をつき、尻をしたたかに強打してしまった。昨日のことである。足が一瞬宙に浮き、尻からドスンと落ちる、スッテンコロリンという形容を画に描いたような尻餅だった。
 買物はおおよそ調達できてカゴを手にレジへ向う途上だったので、中の商品を傷めてはなならじとの判断が一瞬に脳裏をかすめ、両腕を揚げていた。手をついたり受身を取ったりする動作はまったくできなかった。

 滑らかな樹脂板の床に水が撒かれていたのだ。私をして云わしむれば。場所は氷や冷凍食品を納めたボックスの前だった。実際には先客のどなたかが粗相をして、水をこぼしたのだろう。したたり落ちたなんぞという程度ではなく、表面張力の働きで一ミリもの厚みとなった水の板が、床に敷き詰められた状態だった。
 運悪く私は夏草履を履いていた。草履といっても、表こそ畳だがゴム底で、なんのことはないビーチサンダルの兄さん程度の安物だ。しかもレジへ向うに気を取られて、水撒きなどしらぬまま注意散漫になっている老人である。口頭でも表示でも、店員からの注意喚起はいっさい無かった。
 イテ~ッ! カゴの商品は無事だった。起上るのに少々の時間を要した。手を突いて起きようとすれば、掌を水に浸けることになる。三十代ほどの男性買物客が手を貸してくださった。痛みから咄嗟には声も出せなかったので、十秒ほど経ってから追いかけてお礼を申しあげた。
 痛みがひどくなってくる。カゴを床の端に置いて、商品棚の前にしゃがんでみた。アサヒ本生の 350ミリと 500ミリとが二列に並んで積上げられている前だ。
 人眼もあろうから、ソロソロと立上って、ひどい前屈みの姿勢でレジへ向った。むかっ腹が立っていた。
 「俺の草履が悪いんだろうけどサ、床に水撒きはヒデエじゃないか」
 二十代の女店員さんは、聞えなかった振りをして無言でレジ打ちしていた。振返ると、私が尻餅ついたあたりには、五十年配の女店員さんがモップ掛けしていた。眼が合ったが、無反応だった。

 店を出ようとしたが、あまりに痛い。少し様子を看ようと、階上売場との階段に半分物陰になるような隅っこがあったので、腰を降ろした。腰掛けて前傾姿勢でいるぶんには、痛みはほとんどない。レジ脇に戻った五十年配の店員さんと、距離は隔たっていたがまた眼が合った。知らん顔をされた。
 客とマニュアル以外の会話を交すことを禁じられているのだろうか。勤務態度を監視カメラで視張られているのだろうか。だとすれば、お気の毒なことだ。

 ものの三分も経ったろうか。気を取り直して、店外へ出た。車道へはみ出して違法駐車したバイクが、納品搬入を了えたトラックの発車を妨げていた。
 クラクションがいく度も鳴らされた。ドライバーさんが降りてきて、店内に声を掛けた。買物客のバイクではないらしい。スーパーの正面はコンビニで、その隣は居酒屋だ。またスーパーの隣は下り階段を挟んで韓国料理店とドラッグストアである。いずれの客であっても、度重なるクラクションが聞えぬはずがない。ただひとつ下り階段の先は、もとはゲーセンだったが今はゴルフ練習施設で、ここへ入店してしまっていれば表の騒ぎは耳に届くまい。だがゴルフの練習に、バイクでやって来るもんだろうか。しかも迷惑駐車までして。

 誰だいっ、働く車輛の邪魔をするなんぞ、運転免許剥脱もんだ。つねならそう思ったことだろう。昨日ばかりは、ザマア見やがれという気が、一瞬湧いた。ドライバーさんには、まことに申しわけなかったけれども。