一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

歳末感謝大買出し



 用件が三つ以上溜らぬうちは、外出したくない。指を折れば、五つも六つもになった。やむをえない。

 まずはわがメインバンクたる信用金庫にて通帳記入。ギャラ振込んどきましたのでヨロシクとの連絡をいただいたまま、ものぐさを決込んでいた案件があった。これで今夜にでも、タシカニ受取りましたァ、とメールが打てる。
 駅への途上、ふたつの銀行 ATM が並ぶ店の前に、行列ができていた。ゴトー日だ。しかも一年最後の。実感から遠ざかって久しい。会社員時分には、思ったもんだ。世の中には、今日のなん時までに手形を落さねば大事になると必死で金策と振込みに駆けずり回る、工場や商店の親父さんがどれだけいらっしゃることだろうか。それに引きかえ俺たちは、どんな安月給だとて気楽なもんだよなあ。作戦を練るとしたらせいせいがところ、どの店のツケを優先的に払うかだけだもんなあ。褒められたもんじゃない策略のあれこれを、久しぶりで思い出した。

 池袋ではまず東武百貨店へ。五階にエドウィンの出店があると検索により知ったからだ。ジーパンの専門メーカーである。片隅の小さなブースだ。品揃えは十分とは云えなかった。長年私が履き慣れた型番(シルエット)はとり揃えてなく、別のシリーズではあったが、求めたウェストサイズはあった。
 「どうしようかなぁ、今買うとなると、棺桶まで履いてゆくやつだからなぁ」
 「またぁそんなぁ」
 初来店初対面のジジイからいきなり浴びせかけられた超オジンジョークに、金髪男子の店員は対応に窮したようだった。
 取寄せ依頼してなん度も来店するのは面倒だから、買うことにした。となれば試着室だ。フリーサイズで仕立ててあるから、裾丈を決めなければならない。
 「どうしたってウェストより腰で履くようになるから、ふつうのズボン丈よりも一センチ上げといてくださいな」
 「お客さん、ベルト使うんでしょう?」
 「もちろん使うよ。それでも短くしといて」
 生地の硬い新品のうちはいいが、なん度か洗濯して履き慣れてくるころには、ベルトを締めても腰で履くようになるのだ。ヤイ青年、さてはジーパンを知らねえな。
 加工時間を訊くと、あんがいかかるようだ。店内のすぐそこにミシンがある場合とは違う。心づもりでは四十分から一時間。その間を買物に宛てればちょうどいいはずだったが、二時間半後の再来店を約した。


 ともあれ予定の買物を済ませるべきだ。金剛院さまへの年末挨拶とご本尊へのお供え。日ごろ何くれとなく頂戴ものをしたり、老人生存見回りにお気を遣ってくださるお宅の大奥さまと若奥さまへのお礼。父命日には拙宅墓所へお詣りくださったり、拙宅落葉でご迷惑をかけたりしている粉川さんのお婆ちゃんにお茶菓子。拙宅駐車スペースをバイク車庫にしているからと、フランスのお菓子をくださるマドモアゼルに日本色濃い和菓子のお返し。いつもの浅草今半と両口屋是清だ。
 今半ではポイントカードが一杯になったというんで、私用の一品もいただいた。来年のカレンダーもいただいた。台所で重宝する超小型カレンダーだ。

 まだ時間はたっぷりある。ロフトでの買物は先日すべて済ませた。三省堂書店を冷かす。「話題の新刊小説」と銘打って張り店のごとくに表を向いた棚に、覚えのある作者の名はない。裏へ回って既刊文芸書の棚を眺めても、食指の動くものは少ない。興亡常なき世界にあって、小川洋子さんや山田詠美さんの作品が今もこれほど並んでいるのはたいしたことだと、妙に感心した。へぇー、堀江敏幸さんが講談社文芸文庫に入っているんだと、これまた感心した。だがせっかく堀江さんを入れるのであれば、この作品じゃあるまいなんぞとも思った。
 読んでみたい本も少しは見つかる。が、帰宅すれば、生きてる間にこれだけは読んでおきたいと念じる本が山積みになってある。結局買物はせずに、トイレだけ借りて三省堂書店をあとにした。

 まだ時間がある。タカセのコーヒーサロンへ。ホット珈琲と、本日はアンドーナツにした。
 ドイツ文学者手塚富雄による川端康成の解説を半分読む。学生時分ニーチェリルケも、この人の訳で読んだ。手だれの文芸批評家による解説とは異なって、手堅く控えめだ。しかしある着眼によって指標が立つと、それを軸に仕分け・分類・整理する傾向が見える。現今のお若いかたたちの言葉を拝借すればカテゴライズだ。ドイツ文学者だからだろうか。英文学者であれば、別の接近法もあるのだろうか。判らない。
 作家というものは、この指標でこの軸で掴んだと思ったとたんに、ヌルリと脱けてゆく。作家本人の内面が、そうそう固定化してはいないからだ。日々創作に打込んでいる人間の内面が安定している、または一貫しているなどとは、考えないほうが好い。

 定刻少し前にタカセを出る。東口ロータリーの中州に設置された喫煙所で、煙草を喫うためだ。喫煙所にて毎度思うこと。煙草を手離せないのは老人ばかりという指摘は見当外れだ。ジジイババアはむしろ少ない。若者が多い。それ以上に働き盛りの壮年男女が多い。ストレスを抱え、ひと息入れるべく一服したい気分で池袋を歩いているのは、そういう人たちだということなのだろう。
 ジーパンの裾上げはできていた。善は急げだ。この時間からでもお礼に参上できるお宅には、顔出して廻ってしまおう。金剛院さまとマドモアゼルは明日以降だ。