一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

よくある、だって?

 
 「それって、アルアルだよね」
 いつごろからか聴かれるようになった、俗語的口語表現である。具体的説明を圧縮してニュアンスだけ通じさせてしまう便利な語法で、私も使ったことがある。が、今もって好きな日本語とは申しがたい。
 ご多分に漏れず、一部の職業または立場の人たちが編出した、いわば業界用語だったのが、テレビタレントによって用いられることによって、若者のあいだで気の利いた表現と受止められて急速に拡散。今や俗語とは申せまい。通常の口語表現として市民権を得た恰好だ。

 タウンリポートとでも称ぶべきか、カメラを回しっぱなしにして、駅周辺や商店街をただ歩いて見せる動画が、ユーチューブ上には無数に浮遊している。企画に独自性も意図的な狙いも感じられぬものがほとんどだが、それでも、知っている町やわが住む町の動画に出くわすと、ついつい観てしまう。世に云う「再生数稼ぎ」としては、もっともな企画なのだろう。
 わが町を撮った動画をすでに数十本観ているが、駅北口正面で長年営業なさってきた立食い蕎麦・うどん店「南天」さんを漏らす動画は、まずないと申してよい。厨房と注文カウンターを合せても、六畳ひと間ほどしかない、屋台とでも称びたいような͡小体な店だ。一番の看板メニューは、若いご定連に味とカロリーと満腹感とを約束する「肉蕎麦・肉うどん」である。
 町シリーズとは切口を替えた「東京都内の立食い飲食店ランキング」なる動画で、この肉蕎麦が第一位にランクされたこともある。文字どおり若者間にあっての名店だ。

 住民人口も乗降客数も多い私鉄沿線の駅前とあって、まずほとんどの分野と申して過言でない外食チェーン大手が栄枯盛衰を繰返してきた。今も、ロッテリアなか卯モスバーガー・牛丼松屋・餃子満州が軒を連ねる。一歩商店街へと入れば、個人営業の伝統店も立派に営業しておられるのに、である。ロッテリアの以前そこはマクドナルドだったし、モスバーガーの以前そこはドーナツ大手だったし、なか卯の以前そこは……もう忘れた。
 さような地域なのに、富士そばチェーンさんをはじめとする日本蕎麦屋は出店されたことがない。南天さんと勝負する気になれないからだろう。事業の専門家が事前に立地条件や見込み客層や競合関係などを調査すれば、この町は得策ではないと容易に判断されるのだろう。

 駅前から三分ほどの商店街に、わが町では目新しいお洒落なレストランが開店されたのは、ちょうど二か月前だった。女性タレントやプロ野球選手の名前で開店祝いのフラワースタンドが六基も立ち、豪勢なものだった。大丈夫カイナ、という第一印象。
 料理には相当な自信がおありのご様子で、消息通によれば、繁華街では成功している店舗もある昇り龍の外食会社さんだという。これまた好きでもないが便利な近年日本語で申せば、意識高い系のレストランだった。
 だが往来に向けて貼り出されている看板メニューの一部を眼にして、念頭にふと疑問がよぎった。第一行目が、スパゲティナポリタン 980円。どうやらこの辺が最低価格ラインらしい。そういう町ではナイト思ウケドナァ、との第二印象。

 わが町も世代交代が進み、急速に変化してきた。外国人やお勤め人の新住民も増えた。しかし学生や独身会社員向けワンルーム(昔なら下宿)や留学生会館もある。一部にはタワマン族のミニチュアみたいな暮しをしたい住民もあるだろうが、おおかたは辛抱してつましく暮そうとする人びとである。
 憧れの彼女を誘って、ここ一番の勝負飯という店構えでもあるまいし、ちょいと満足できるランチというには、このメニューと価格基準はいかがなものかと、素人考えにも思わぬわけにはゆかなかった。
 今日視ると、看板は仕舞われ、扉は閉じられ、屋号を巨きく染め出されたテントは巻き上げられていた。近ぢか炒飯専門店へと、模様替えされるとの予告掲示が貼り出されてある。

 終日営業を謳う南天さんであっても、深夜から始発前の明けがたにかけて、駅前に人通りが絶える時間帯はあるだろう。仕入れや仕込みに上手に時間配分なさっておられるのだろう。
 朝番のスタッフが顔を見せる。昨夜から明けがたを頑張ってきた店長がシフト明けとなる。すぐに退店したりはしない。柄の長い塵取りと芝箒とをそれぞれ両手に、駅前のゴミや紙くずを掃除して歩く。自店前だけではない。片方向は、商店街の入り口手前まで、つまり地元在住店ではない店が軒を連ねるあたり一帯だ。反対方向は、駅前交番の前から、不動尊の前から、神社の大鳥居前あたりまで、個人宅の責任範囲でない駅前一帯だ。
 早朝ウォーキングの人もあれば、始発を待って河岸や市場へ仕入れに出かける人もある。始発で帰ってくる人もある。地元に根付いた人びとは、歴代の南天の店長さんや古参スタッフさんらが、この地に馴染み貢献しようと、地道な心掛けをどれほど積上げてきているかを知っている。
 地元住民すべてが蕎麦・うどんを好物としているわけではあるまい。が、「南天」は住民から支持されている。

 若者から小説の習作を見せられ、感想を求められる機会が、以前はよくあった。むろん私でもお役に立つあいだは読ませてもらう。
 「よくある駅前の風景だった」とか「どこにでもある月並な商店街だった」とか、云うに事欠いて「とくに言うべきこともない平凡なサラリーマンの家に育った」などと導入部を書いて、平気でこれが小説だと主張する者がある。百年待っても、その若者が小説家になるのは無理である。どう云ったら本人を傷付けずに引導を渡せるか、そればかり考えたものだ。