一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

タイム・シャッフル



 拙宅より徒歩一分圏内にあって、わが日常的用足し所だったファミマが、閉店した。この日記にも当りまえのごとくに、しばしば登場した店である。

 弁当やおにぎり、総菜パンや菓子などの食品。緊急間に合せの文房具や小物雑貨。半年に一度の『文藝春秋』などを購入した。煙草については、いつもの銘柄を知ってくれている店員さんがたが、私の入店と同時に棚から用意してくださった。コピー機やファックスを利用し、公共料金もこの店で払った。ネット予約したバスケットボール試合のチケットの、受取りと送金もこの店で済ませた。閉店は私の暮しにおいてそうとうな不便、おおいなる痛手である。
 「公共料金のお取扱いは5月23日までとさせていただきます」
 世間事情に暗い私は、レジ脇に貼紙が出るまで知らなかった。月末に閉店するとのことだ。すはっ、これも道路拡幅事業にからむビルの建て替えだろうかと咄嗟に思い当って、顔馴染の店員嬢に問いかけた。それとは関係ないようですよ、との返事だった。
 だったら模様替えだろうか。そうでもないらしい。となれば撤退、閉店ということだろうか。

 わが町にあって、最古参のコンビニである。開店が何十年前になるものか、記憶にない。近所で初のコンビニだったかどうかは知らぬが、今も生残って営業しているコンビニには、ここより古い店はない。それどころか、地元の水に合わなかったものか、消えていったコンビニがなん店もあるが、どれもここより後発店だったような気がする。つまりわが町にまだコンビニ文化が根を降ろすか降ろさぬかの時代に、開店したのだった。
 当時から案外購買力のあった町だ。しかも周辺に競合店はなかった。ある時期、全国のファミリーマート・チェーンにあって最高額の売上げを挙げている店舗とすら噂された。今は立派な師匠となられている噺家さんがまだ二つ目さんだった頃、落語のお仕事が暇になると、バイト店員として働いておられた。飲み仲間でもあった彼から、バックヤード事情をいろいろ教えていただいたもんだ。村田沙耶香コンビニ人間』よりも、ずっとずっと前のことだ。

 またいつごろのことだったか、深夜に練馬方面から拙宅へと駆けつけてくれる友人があった。はや終電は過ぎている。拙宅の場所も知らない。私は電話で、タクシーの運転手さんにかように願い出てくれと伝えた。
 「千川通りに沿って道なりに直角に曲り、踏切を越えてほんの二十メートルを右折して、山手通り方向への一方通行路をどこまでも直進。山手通りチョイ手前の、信号とファミリーマートがある十字路で降りる」と。
 友人は不安がったが、私には自信があった。大丈夫、それで拙宅前まで来られると。じっさい友人はやって来た。開口一番「それで解らなきゃあ運転手たあ云えません、お客さん、だってさ。ファミマって、すげえんだな」と云った。

 今では近所に競合店も増えた。昔日の売上げ日本一とは比ぶべくもなかろう。かといって繁盛してないわけではなかった。単純な業績不振による閉店とは思えない。
 わが町のコンビニもスーパーも、自動決済機の時代となっている。この店は熟練の店員さんが札を数え、釣銭を手渡してくださっていた。システムもそれに伴う設備も、大幅に刷新する必要に迫られていたのだろう。自動決済機はどうも肌に合わぬなんぞと駄々をこねる私のような客も少数はあろうけれども、大勢の赴くところは決していよう。

 ふだんそんなことを考えてみたこともなかったが、いざ閉店されてみると、上の噺家さんだけでなく、いく人ものかつて顔馴染だった店員さんがたの面影が浮んでくる。思い出すだに恥かしい失敗もあったし、こんな私でも人さまに親切にして差上げたことだってある。
 場面場面、瞬間瞬間はありありと思い出せるけれども、さてそれらの前後関係がさっぱり記憶にない。わが想念中にあっては、五年くらい前、十年くらい前、十五年か二十年ほど前、三十年近く前、三十年以上も前、カードはそれらいずれかの箱に仕分け分類されてある。場面や登場人物を思い出せさえすれば、さほど昔のことでもないような心持になる。
 それでいて、最後の職場を定年退職して二年あまりになるのだろうが、月づきのギャラを受取っていたなんぞは、遠い昔の出来事だったような気分でいる。