一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

次なる時代


 お作を通して、ずいぶんいろいろ教えていただいた気がする。それでも私は、この作家にとって好ましい読者には、一度たりともなれなかった気がしている。

 島田雅彦さんが『優しいサヨクのための嬉遊曲』で登場したとき、読みもせぬうちからその題名に圧倒されてしまった。アッ、新しい奴が出てきた、という感じがした。
 国も時代もこのままでいいわけがない。ならばいかにすれば? 残念ながら勉強不足につき判らない。かといって日本社会党にも日本共産党にも同調できないとなれば、とりあえずは大学内を席捲していた新左翼だ。志は文学にあるから、政治運動にのめり込むわけにもゆかず、心情的には新左翼に共感しながらも行動をともにはせず、自分の生きられそうな道を探してウロチョロと……。数年先輩か一年先輩の立松和平中上健次冨田均三田誠広村上春樹の諸兄や、私と同齢の荒川洋治さんや佐藤洋二郎さんがたを視ても、だれ一人として相互に似てはおられないが、各人各様にそんなもんだったろう。そしてだれ一人として、左翼をサヨクと片仮名書きする者はなかったはずである。

 十年が経った。干支で私よりちょうどひと周り下の島田雅彦さんが、風刺か諧謔か批判か当てこすりかは知らぬが、左翼をサヨクと表記する小説家として登場したのだった。
 文章は滑らかで物語は淀みなく流れ、行間は風通し好く語彙選択は明快だ。スマートというのだろう。頭脳明晰というのだろう。博識というのだろう。だがこの作家はなにをなさりたくて小説を書こうと思い立たれたのだろうか。私には読み取れなかった。いく年かが経って、『夢使い――レンタルチャイルドの新二都物語』が出た。突然判った。私なりに解った気がした。
 利発で見目麗しい少年が登場した。だれもが少年を可愛がりたがり、連れ歩きたがった。貸し出された。少年は人見知りせず、大人たちから好かれる術を体得していった。宇野浩二『子を貸し屋』の現代版だ。
 レンタルチャイルドとしての極意を身に着けた少年は、習い性と申すべきか宿命と申すべきか、やがて長じて後もレンタルフレンドとなりレンタルラヴァ―となり、レンタルハズバンドとなりレンタル男となってゆくしかあるまい。近代的自我だの独立人格だの倫理的人間性だのと、どこかから持ってきた付け焼刃の観念を押し付けられても、彼には迷惑である。既存の月並な鍵語をもってしては、この少年(今は大人)の心の扉を開くことはできまい。

 その昔、重厚にして深刻な戦後文学が轡を並べていたとき、突拍子もないお騒がせ新人として、同齢の青年二人が跳出してきたことがあった。石原慎太郎小田実だ。一見したところ感性も思想傾向も対照的な二人だが、じつは一枚の盾の裏と表に過ぎないと規定して見せた三人目の同齢者大島渚は、「擬似主体者」なる鍵語を設定して、同世代の内面のカラクリを説明して見せたものだった。
 その図式を思い出した。島田雅彦さんが身を置いているのは、私なんぞには想像もつかぬ次なる時代なのだと、私なりに納得した。
 続く数年のうちに相次いで刊行された『彼岸先生』『忘れられた帝国』を、私は面白く読んだ。私なんぞがこの作家の主たる想定読者ではないと承知しつつ、興味深く読んだ。そして、この作家は、もういいやという気になった。むろんその後いよいよ円熟期を迎えただろう島田さんには、後続の傑作もおありにちがいないが、私は縁なき衆生だった。

 再読したところで、私の理解が深まることはもはや望めまい。このさい島田雅彦を、古書肆に出す。ただし『夢使い』一冊だけを残す。
 昨日公開したトーナメント方式を採用して、対戦相手の佐伯一麦を全冊残す。例によって、理由はいずれ。