一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

疾風のごとく

篠崎澪『努力夢元』(ベースボール・マガジン社、2023.5)

 二人の姉がミニバスのクラブに所属していた。次姉が試合で大喝采を受けるのを観て三女は、私もやると云い出した。小学一年生だった。

 負けず嫌い、禁欲的努力家、練習熱心、筋トレの鬼女……富士通レッドウェーブでもアカツキ・ジャパン(ナショナルチーム)でも、篠崎澪さんは引退のその日まで後輩たちの手本と尊敬された。その名選手による二十数年の回想録だ。まさに走り続け駆け抜けた青春の記録である。
 小学生のミニバス倶楽部だ。初めはお愉しみスポーツ・健康スポーツである。だが多くのチームメイトのなかで技術競争するうちに欲も出てくる。強いチームがある中学に進学したくなった。全中(全国中学校大会)を狙えるチームを志望し、旭中学へ進学した。
 一年生のときから試合には使ってもらえた。二年生のとき、神奈川県では勝てても、関東大会では敗退した。優勝したのは東京成徳大付属中で、三年には間宮佑圭がいた。後年 JXエネオスサンフラワーズでもアカツキでも、渡嘉敷来夢とツインタワーを形成することになる大型センターだ。
 その東京成徳付属中の二年生には篠原恵と山本千夏もいて、すでにスターティングメンバ―だった。同齢の二人とは後年、富士通レッドウェーブで長くチームメイトとなるとは、だれ一人夢にも思わなかったろう。三人とも、レッドウェーブひと筋で引退の日を迎えることとなる。

 三年生になると、はっきり全国優勝を意識し、練習にも身が入った。関東大会から上位四チームが全国へと駒を進めることができる。つまり準決勝に出なければならない。準決進出を賭けた相手は全国に名の轟く強豪ハチイチ(八王子市立第一中学)だ。いく度かの練習試合でも分が悪かった相手だったが、撃破することができて、全国進出の念願が叶った。
 準決勝の相手は宇都宮市立若松原中学。後年、三菱自動車アンテロープスの名選手にして、アカツキではチームメイトにもなった水島沙紀を擁していた。これにも勝つことができた。
 決勝の相手は、前年に引続いて優勝候補筆頭だった東京成徳大付属中だ。篠原恵も山本千夏もいっそう磨きがかかって、パワーも増していた。歯が立たなかった。ボロ負けに負けた。
 金沢総合高校ではインターハイでベストフォーに。松蔭大学ではユニバーシアード日本代表選手に。四年生時のインカレでは MVP と得点王のダブル受賞でチームは優勝した。
 競技種目にかかわらず、名選手による回想録はいつも、水滸伝かなにかを読むようだ。女性にそぐわぬ言葉だが、豪傑たちは若いうちにどこかしらで出逢うか、擦れ違うかしている。後年再会して、なぁんだそうだったのか、となる。

 私はずいぶん遅れたファンだ。彼女に注目したのは、松蔭大の主将としてインカレ優勝した年だ。サイズはさほどでもないのに、とんでもないポイントゲッターだった。
 いくつものチームから勧誘はあったが、富士通レッドウェーブに入団した。そこにはすでに、齢下ながら札幌山の手高校で高校三冠を成し遂げ、ただちに入団した司令塔の町田瑠唯がいた。そしてなんと、あの東京成徳中の篠田恵、山本千夏もすでに、東京成徳高校卒業後入団していた。後に、他チームから移籍のかたちで、松蔭大の後輩内野智香英が入ってきた。やはり移籍のかたちで、金沢総合高校の後輩宮澤夕貴が入ってきた。
 レッドウェーブのバスケ・スタイルが明確な姿を現した。サイズでは JXエネオストヨタ自動車デンソーシャンソン化粧品に劣るかもしれない。だが、走ったら負けたことがない。

 東京オリンピックの3×3バスケ日本代表選手。W リーグではファイナルまで進み準優勝。篠崎澪はシューズを脱いだ。
 プロサッカー選手と結婚。夫のホームタウンである青森県八戸市在住。産れてこのかた住所も所属チームも、ずっと神奈川県だった女性がである。本年四月、女児出産。母となった。

 今月下旬から来月にかけて、オーストラリアのシドニーで開催されるアジアカップに向けての最終合宿が打上げられ、正式メンバーが発表された。合宿中に怪我を負ったらしい町田瑠唯の名前はない。長年アカツキの大黒柱だった渡嘉敷来夢の名前もない。
 パリオリンピックを視野に入れた、新布陣ということだろう。とある時代に深く馴染んだファンにとっては、一抹の寂しさが避けられぬニュースだろうが、若者の世代交代にはつねに、期待感を伴う明るさが感じられる。