一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

節季見舞


 今年もこの季節がやってきた。百貨店から、中元向けの商品カタログが届いた。

 年二回、中元と歳暮のひと月あまり前になると、このカタログを撮影して日記に書いてきた気がする。
 毎度のことながら、私には豪華過ぎるカタログだ。選ぶ商品はだいたい決っている。送付先も近年めっきり減って、総取引額も昔日の比ではない。それでも滞ることなく送られてくる。この百貨店が池袋の地に開店したさいに、両親が取引きを開始してからの付合いだ。
 現在ではインターネットによる依頼方法が完備され、むしろそのほうがお互いに世話なしだとは承知しているが、私は特設催物場とやらいうカウンターへ出向くことにしてきた。用事というものは、済ませれば足りるというものではない。自分の気持に区切りを付けるためにも、年二回ていどなら維持してよろしい生活行事だと考えている。

 古い送付リストも記録も保存される仕組みらしい。父母ともが他界したのを機に、比較的近しい親戚と、父母が療養中にお世話になった主治医先生がただけを残して、私と面識のない幽霊リストは思い切って削除した。それでも数ページにわたる名簿が残った。
 その後この十五年で、送付先はさらにガクンと減った。ご住所お名前は残っていても近年の送付実績のない行が、名簿中に増えてきた。
 「今回お休みの先方さまリストを、いかがいたしましょうか。整理なさいますか?」
 カウンターで応対してくださる担当さんが、訊いてくださる。
 「そのままにしておいてください。時期を看て、まとめて整理しますから」
 その時期がいつやって来るかは、今のところ判らない。が、この名簿から外してしまえば、あとは交際の痕跡が残らぬかたも多い。古い年賀状をひっくり返すしか、手立てがなくなってしまうかたもある。最終判断を先延ばしにしてあるわけだ。

 年齢やご家族構成、つまり先方のお暮しぶりを想像して、けっして無駄にならぬものを。同じ値段であれば見てくれの質素なほうを。亡母からの教えを、この齢になっても守っている。
 興味本位に目まぐるしく品物が変るのは感心しない。むしろ気が利かぬと思われてちょうどいい。おかげさまで、当方変りございませんとのメッセージが大切だ。「またあそこから、いつものアレが来たよ」と嗤われるくらいがちょうどいい。
 来週あたりは雨天続きとなる公算が大きいそうだ。そんな中を池袋の百貨店まで出向くとなれば、ふたつや三つの用事をついでに片づけるべきだろうが、さてなにが溜っていたのだったか。先延ばしにしてある用件があり過ぎて、優先順位を定めるに窮する。

 こんな住宅地にこれほど高いクレーンがとか、アッという間の現代工法とか、いく度も私の眼を惹いてきた建築現場が、足場も眼隠しもすっかり取払われて、美しいビルの姿が顕れた。長年わが町でご商売なさってきた不動産会社さんの自社ビルだ。工事期間中は、小路を挟んで隣接する家作を仮事務所となさっていた。
 階下が自社使用で、階上にはテナントが入るらしい。わが町がまたひとつ、今風になるのだろうか。当事者や関係者のかたがたは、人生がまた一歩たしかに前進したとの手応えを感じて、さぞや晴れがましいご気分でいらっしゃることだろう。めでたい。

 さような前向き気分は私の来しかたにはなかった気がする。あるいは自分では気づかぬだけで、じつはあったのだろうか。鈍感に視過してきただけなのだろうか。
 ―― 社長さん、御社の場所は、ちょいとした空き地でしたよ。お隣の巨きなマンションね、昔は銭湯でしたわ。「宮の湯」といってね。今の焼肉屋さんのあたりが、ちょうど玄関だったかなぁ。で、塀で囲われた脇の空地にね、お湯屋さんのボイラー建屋と薪置場とがあったんですわ。むろん危険地帯ですから、ガキどもは入ることが固く禁じられてましたがね。
 なにはともあれ、時代が進んでゆくことは、慶ばしいことだ。