一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

線香臭い、きな臭い


 気にかかっていた用件を果して、喫茶店でひと息。わが超些細暮しにあっては、至福の瞬間だ。これほど他愛のない至福なんぞ、あってよろしいもんだろうか。

 昨日は池袋まで出掛けて、節季ご挨拶の手配完了。朝食前だったので、足早に帰宅のつもりだった。が、せっかく街へ出たのに、雑踏の様子や人びとの顔つきなどを眺める時間ももたずに、尻尾を巻くかのように帰宅してなんとしようぞ、との想いも湧き、横断歩道を渡ってタカセ珈琲サロンに腰を降ろした。巨きな栗が丸ごとあしらわれたマロンデニッシュとアイス珈琲。私にしては豪勢な朝食だった。
 調子に乗って、買物予定もないのにドン・キホーテ店内を見物して歩いた。並びの百均ショップも覗いた。両店いずれもで、ナルホドかようなものがあるのか、フムこれも好いななんぞと、胸中でのつぶやきしきりだったが、ついに買物はしなかった。自分を誉めてやりたい。

 今日は今日とて、金剛院さまへ来月上旬に迫った施餓鬼会に頂戴する塔婆のお願いである。十日ほど前に、どうにも寝そびれちまった朝があって、ヤケクソで近所ぶらり散歩に出たが、その日にはまだ正式な申込用紙が届いていなかったので、手続きせずにしまった。
 本日とどこおりなく澄ませて、ロッテリアにて「絶品チーズバーガー」とアイス珈琲。二日続けての贅沢朝食だ。
 昨日はふと生じた気分によるひと息だったが、今日はなかば予定の行動だ。珈琲を飲みながら読む本も、鞄に携えてきている。

 十日前の散歩墓詣りでは、このところ休業がちだった花長さんが念頭にあって、他で花を都合してから金剛院さまへ向ったところ、案に相違して営業しておられた。手に持った花をべつだん隠す筋合いでもないとは思ったが、足早にお店の前を素通りした。今日は安心して、花長のおかみさんに花を見つくろっていただいた。
 庫裡にてご挨拶。施餓鬼会のお願い。お供え物のお願い。十年近く前から、ご仏前には和菓子という定型をあえて無視するように心がけている。教え子に栃木県のお寺さんの娘があって、盆暮れ彼岸には和菓子を決死の覚悟でいただいて激太りすると聴かされて、習慣を改めた。春秋彼岸だけは旧来の和菓子風習を残して、ほかの節季や催しには常識に背くようにしてきた。
 今回は銀座鈴屋さんの葛寄せ。小豆や柚子や梅など、葛の内にとじ込めた味をいろいろ詰合せた、冷して愉しむ軽い菓子だ。

 さて墓詣り。同工異曲のアングルで、はやなんカットのシャッターをきったのだろうか。仕上りデータをトリミングしてみると、満足のゆくものはかつて一カットもない。これも不思議だ。月が変ったら施餓鬼会ですから、また塔婆を上げますと父母に向けて予告。

 わが家の墓が済んだら、ご生前に縁あったかががたのご墓所をひと巡り。歴代ご住職集合墓域の一画。無縁仏合祀大観音と六地蔵。本殿と大師堂それぞれにて、大師さまを称び出して光明真言を三度唱える。ミニ四国巡礼の石塔と大師銅像前では、十日前には先駆けのみが開花していたアイリスが、咲き揃っていた。四国一周の後、初めての試みと思うが、あえて逆光でワンカット撮ってみる。

 山門を辞去して不動堂へ。その門前には道祖神を兼ねた石地蔵。闘いの護神たる不動尊には、ブログを書き続けている旨を報告し、この町でわが最高のお気に入りたる地蔵尊には、今後も道標をと依頼した。ともに日本人のオテントさま信仰にあって、中心に立つ両尊である。

 で、無事に駅前に戻り、ロッテリアの二階に席を占めて、ひと息ついたところだ。目下の急務関心事のひとつ、ツキディデスからヘロドトスがいかに見えていたかという問題である。桜井万里子さんのご教示は行届いていて、門外漢にも解りやすい。親本単行本では書名と副題が逆だった記憶があるが、文庫化にさいして逆転なされたと見える。
 本書によれば、二十代最後から三十代にかけて私がほんの隅っこをかじった、E・H・カーだのコーンフォードだのによる論考は、今や研究課程における古典と称ばれるべきもので、その後も目覚ましい解釈の進展があったようだ。
 ヘロドトスの「過去の全体」概念とツキディデスの「未来の本質」概念の交錯と、私は視ている。伝説伝聞までをも含め世界各地の過去の一切合切を書き留めて、人びとの共有知識にしようと考えたヘロドトス。それに対して、世界崩壊にも似た大戦争は将来もきっと起る。それに備えて、余分を削ぎ落し、事態の本質を具体的実証的に洗い出しておこうとしたツキディデス。そして後輩ツキディデスには、ヘロドトスの志と思考方法とは、いかに見えていたのだろうか。
 桜井さんの名著は、まさにこの件に正面から取組まれた、興味尽きぬ一書である。

 断続的に二十七年も続いたペロポネソス戦争で、かつてデロス同盟の盟主としてエーゲ海に覇を唱えたアテネは、スパルタに屈する。寡頭政治の始まりだ。しかしスパルタは、石のようにカッチリ固まる小国運営は得意でも、広域とくに海洋地域を束ねるに向かぬ国だった。やがてアテネはじわりじわりと国力回復してゆく。スパルタは多くの権益を維持しつつも、統治形態においては妥協せざるをえなくなる。民主制の導入だ。むろんそれだけで、問題が解決したわけではない。
 王制と僭主独裁制、貴族制と寡頭制、そして民主制、人間に我欲あるかぎり統治形態に最良最高ベストは望むべくもないけれども、比較的によりましなのはいかなる統治形態だろうか。後にアリストテレス政治学』において執拗かつ詳細に比較検討される問題である。私は今でも、短篇(というか残存断片)『詩学』を除いたアリストテレス大著のうちでは、『政治学』がもっとも面白いと感じている。むろんごく一部を読みえた範囲でだが。

 アテネの民主制など、たかだか八十年続いたに過ぎない。敗戦から今日までのわが国と一緒だ。そのうちで才能豊かな指導者に恵まれた黄金期と称ばれるのは、せいぜい二十数年に過ぎなかろう。あとは汚職と堕落と、足の引っぱり合いと分裂抗争と、つまりは潜在的暗雲である。他人事とは思えない。
 紀元前四百年のアテネと、ただ今現在の東京と、どこが異なるのか、私には判然としない。