一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

富士登山

撮影:丹沢和仁

 コロナ禍は明けた。季節も日和も好し。山梨でも静岡でも、ドッと押寄せた富士登山客で大賑いだという。

 商業施設・サービス施設にあっては、いささか愁眉を開いたことだろう。だが、過ぎたるはなんとやらで、痛し痒しの問題が生じているという。登山客殺到によって、頭痛の種がふたつほど発生してしまったそうだ。
 第一は、富士山周辺の環境は世界遺産に登録されてあるが、制度を司るユネスコ国際連合教育科学文化機関)から警告にも等しい注意喚起要請がなされた。登山客急増によって、界隈の静謐・清潔・神秘性が保持できなくなってはいないかとの懸念である。
 世界遺産文化遺産と自然遺産とに二大別される。富士山一帯は文化遺産である。すなわち地形・風光そのものが世界遺産なのではなくて、古代から現代にまで活き続けてきた霊場としての精神的価値、および文学・美術その他の芸術を豊かに彩ってきた文化的価値をもって〈遺産〉とされた。観光地として繁盛するあまり俗化して、宗教性・精神性においても、さらには芸術性・文化性においても色褪せてしまっては、〈遺産〉資格を喪わざるをえぬわけだ。

 第二に、いかなる集団にも一定割合で混じりこむのを避けられぬ不埒者が、登山客の急増によりアタマ数として増えた。ましてや登山経験乏しい初心者や、登山愛好家ならぬ観光客も多い。霊場を巡礼して掉尾を奮うべく、満願を期して霊山の頂上を目指すとの心構えを抱く者など、ほんのひと握りに過ぎまい。
 なにが生じるか。ゴミのポイ捨てや野生動植物に対する違法行為を典型とする、様ざまなマナー違反である。自分で出したゴミは責任をもって持帰るという、山の常識が守られなくなっているらしい。
 富士はやはり遠くから眺めるのがよろしい、実際にに行ってみて興醒めした、という感想が、笑っていられぬほど頻出するようになってきた。

 ところで、この件を報じた NHK ラジオニュースの原稿がかようだった。
 「外国人が増えたこともあってか、自分のゴミを持帰らぬ登山者も見受けられ~」
 おそらく実状を遠く外してはいないのだろう。とは思うものの、公共放送のニュース原稿として、これはいわゆる〈炎上〉ものではないのだろうか。
 微妙な言葉尻だから、私の記憶曖昧を先に白状しておく。白状したうえで申すが、たしかに「外国人が増えたから」とあからさまな蔑視も憎悪も表明してはいない。「外国人が増えたこともあって」と、数ある理由のひとつとして確実に存在すると部分断定してもいない。「外国人が増えたこともあってか」と、さような推測も一部て囁かれていると耳にした、程度の云い回しである。が、それでもカチンと来る外国人は多かろう。

 霊山を汚すゴミの量をいかに数値化しているものか、私はまったく知らない。無知を前提に申すが、そりゃ確かに、外国人登山者が増えたことと関係あろう。日本人にとって富士山がいかなるものかについての認識不足とも関係していよう。だが同じ程度に、不心得な日本人登山者が増えたことにも関係あるにちがいない。
 登山家の野口健さんが、あるとき証言しておられた。エベレストをはじめとする世界屈指の高峰に挑んできた野口さんのご経験談だ。シャープペンシルの芯の先が折れたって、山では大変な問題だそうだ。ましてや輪ゴムが落ちただの、ホチキスの針が外れただのとなれば一大事で、血相を変えて文字どおり死にもの狂いで捜し回らねばならない。むろんエベレストの九合目でシャープペンシルや輪ゴムやホチキスが使用されるわけではなく、いずれも譬喩だが、それほど山でのゴミ問題は神経質だということだ。
 放置してもいつかは土に還るなどという暢気な問題ではない。深いクレバスに落ちて、永久凍土に閉され、未来永劫のゴミとなる。それが山の常識というもんだそうだ。

 ウェブ上での、日本スゴイダロ自己満足投稿や、日本大好きヨイショ投稿を観ていると、世界に冠たる綺麗好きで礼儀正しい日本人とそれを理解できぬ外国人といった対比が公式化している。さような事実もごく部分的には実在しようけれども、ここではおよそ別問題である。日本人であれ外国人であれ、山の常識に無知な人間が、わきまえもなく富士登山に挑んでいるという問題である。