一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

季節の装い


 「多岐さん、いらっしゃいますぅ?」
 今年もこの時期がやってきた。多くのかたにご迷惑をおかけしてしまう。

 宅配便の配送員さんの声だ。普通ならとっくに定期人事異動で担当配置替えになってるはずが、「なぜか俺は動かないんだよねぇ」とおっしゃる、この地の名物男だ。
 まだ非常勤の務めを持っていたころ、水曜はいないよ、何曜と何曜は昼まで寝てるなどと把握してくださっていた。宵の八時過ぎ、
 「午前の便と一緒にしました。俺の出番だったらいいけど、知らない後輩がお留守中に伺っちゃうかも知れんけど、ごめんね」
 「定年後は、めったに外出しないから、どうぞお気遣いなく」
 まったく、お礼を申し、謝らねばならぬのは当方である。

 季節到来を報せるように、夏の食糧が届いた。拙宅唯一のハイテク機器の面倒を看てくださっているパソコンコーチながしろさんからのお心遣いだ。日ごろのお礼を申しあげねばならぬのは、当方であるのに。恐縮至極である。
 奥様は堅気の定時職でいらっしゃるが、ご本人はなにがご本職やら、いく度伺っても私には理解が及ばぬマルチ・クリエイターだから、時間は流動的。二人のお子さんのお世話も、日昼は夫君の出番らしい。
 氏の今朝の SNS には、「妻の元ツレに再会」とあった。オイオイ、そんなことカミングアウトする奴があるかいと、他家のご事情ながら一瞬血相を変えた。開いてみると、ご家族サービスに熱帯植物園へと行楽なさったところ、椰子の木やマンゴー樹ほかことごとくが巨大なのに感じ入ったとの記事だ。こんな巨きなモンステラ(インドゴムの木に似るが、葉に深い切れ込みがあって、穴だらけに見えるのが特徴)も初めてお眼になさったという噺だった。
 独身恋愛時代、当時大阪にお住いだった今の奥様に会いたくて会いたくて、月に一度の大阪通いをなさっておいでのころ、奥様のお住いには鉢植え観葉植物のモンステラがいつもあったという噺だ。
 ナンデ―ッ、このクソ蒸暑いさなかに、ノロケバナシかい。テーゲーにしろってことよ!
 ともあれご夫妻、若、姫、お揃いでご息災なにより。ご夫妻にはモンステラが感慨ひとしお、お子たちには氷イチゴとコメダ珈琲が思い出。まことにけっこうじゃありませぬか。

 この時期は私も、素麺を食糧ボックスに欠かしたことがない。ブランド品ではむろんない。ビッグエーご提供の品が愛用だ。棚から自由に手に取って、透明袋をしげしげと眺め、中折れの本数が少なそうに見えるのを買物駕籠に収めている。
 木箱に収められた商品があることは、百貨店でも商品カタログでも観て、承知していた。買ったことは、長らくなかったけれども。一日二食生活のうち一食は可能な限り多品目に、もう一食は軽便にと心掛ける身には、まことに重宝な実弾補給である。糧秣廠の軍曹も主計将校も大喜びだ。

 木箱の蓋を取ると上紙。本で申せば、表紙を開けると扉デザインが眼に飛び込んでくるのと同じだ。品質保証書まで添えられてある。そして丁寧な商品包装。まさに付加価値にはちがいないが、文化の水準というものでもある。
 外国人から、日本の商品包装の過剰さを指摘されて久しい。そんなもん価値でも文化でもなく、見栄であり浪費の自己満足に過ぎず、むしろ劣等感の裏返しではないかと。
 ほんの一部は当っていよう。が、大部分は見当違いである。木箱や包装紙そのものが文化だとは申していない。日本人は品物を贈答しているのではない。気持を贈答しているのである。包装紙は気持の装いであって、品物のパッケージではない。
 包装や梱包の問題は、水引や折紙の美意識伝統と切り離しては考えられない。紐や綱や糸などを結ぶ技術だの書道だのとも、切り離しては考えられない。ことごとく気持の装いの問題であって、それが文化だと云っているのである。
 単一娯楽を大量販売して金儲けすることが文化事業だとしか感じられぬ輩から、とやかく云われる筋合いではなかろう。むろん、勘違い豪華の下品な横行にうんざりする局面も多々あるとは、承知したうえでの噺ではあるけれども。