一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

お手入れ



 塩分補給用のキャンデーを頂戴した。
 
 熱中症予防に小まめな水分補給とは、世間知らずの私ですら口癖のように復唱するけれども、塩分摂取については失念しがちだ。
 そもそも私は高血圧疾患のキャリアだ。四十代に早ばやと脳梗塞を経験した。若年発症だったため、症状が軽く、回復力もまだあり、安静と治療とやがてリハビリとでひと月ほどの入院療養で済んだ。後遺症も薄れてゆき、六七年経つうちには麻痺など忘れて暮せるようになった。
 さような体質だから、食生活の安定と塩分摂取過多については、自分なりに配慮を欠かさぬ癖がついた。が、塩分補給については、まったく配慮が身に着かなかった。その点をキャンデーに気づかせられた。
 ビッグエーでもダイソーでも取扱っている、ごく大衆的菓子だそうだ。週に二度は赴く買物途上で、眼に入っていたはずだが、気づいていなかった。意識及ばぬがためになにも見えていないという、典型的実例だ。


 明日から向う一週間にかけて、人と面談したり会合に出席したりの予定が三つ入っている。用無しには珍しいことだ。で、散髪に出かけた。

 途中にフラワー公園前を通る。拙宅裏手の児童公園より五倍ほども広い公園だ。児童遊具も多く、植栽の量も種類も樹齢も段違いだ。わが気に入りのケヤキ巨木もある。花壇も広く、四季の植替えもはるかに大規模である。
 が、個人宅の花壇とは違って、毎日気づくたびに雑草の芽を摘んだり、虫の卵や巣を除去するなど、小まめな手入れをするわけにはゆかない。主役だ雑草だと云ったところで、しょせんは人間が勝手に線引きしただけのこと。つまりは植物同士の和合だの競合だのの経過を辿って、落着くべき繁茂状態となる。
 季節が巡って、豊島区の予算が執行される時期の到来とともに、主役も雑草ももろともに掘返され除去され、加肥整地のうえ、次なる主役へとバトンタッチされてゆく。

 ならば現在は過渡期か。次なる檜舞台をひたすら待つだけの、見苦しき忍耐期だろうか。私にはどうにもさようとは感じられない。むしろ「ざまァ見やがれ」というような、快哉に近い印象すら抱く。ただしなにが「ざまァ」で、だれに向って「見やがれ」なのか、われながら判然としない。
 どうやら、植物の底力についての畏敬の念が関連ありそうなのだが、突詰めて考えてみたことはない。考えてみたところで、定見に至ることなどあるまいとの予感もある。なにせ人間どころか、脊椎動物全般よりもずっとずぅ~っと、はるか以前から地球上にいた連中である。人間の計らいなどで太刀打ちできようとは、はなから思えない。

 理髪店の手前に、とある旧家があって、かねてよりゆかしきご趣味に興じておられる。ガレージと隣家とを区切る金網フェンスに、いくつものバスケット状の栽培ポットを設置されて、多肉植物のみによる寄植えが並んでいる。
 灼熱乾燥地など劣悪な生存環境に生きた遠い先祖をもつ、形状まちまちの植物たちである。程よき陽光と水分と地味に恵まれて伸びのび育った、わが温帯の植物たちとはおよそ似ても似つかぬ、なにやら尋常ならざる生きる覚悟が形状に顕れている種類が多い。寄植えポット内の緊張感がことのほか高い。
 お宅の前を通るたびに、盗み観るように観賞させていただいてきた。

 劣悪な生存環境とひと口に申しても、その劣悪さは程度も傾向もさまざまだ。それぞれの環境に生きた連中の性質は千差万別で、成長速度もまちまちだ。ほんらい寄植えに馴染まない。飾り植えたときの均衡はほどなく崩れる。やむなく間引かれるものが発生し、ポット間でトレードされるものも出た。親身な観察と丹念なお手入れである。
 ぶしつけながら、一年前に撮影させていただいたポットを、今日もワンカット撮らせていただいた。

 で、ようやく辿り着いた理髪店にて、マスターと浮世床。月一回、ここでだけテレビを観せていただく。散髪は済んだというのに、次の客がちょうど切れたのを好いことに、よく冷えた麦茶を呼ばれて話しこむ。談たまたま老人の暑さ対策の話題に及び、「塩分チャージ」なるキャンデーを教えていただいた。