一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

初歩の初歩の初歩

 日本大学藝術学部を母体とする雑誌『江古田文学』が主催する文章講座で、この夏もお喋り役を務めることとなった。以下はご案内。

 日時:2023年8月9日(水)、12:30~14:00(12:00 より受付)
 場所:日本大学藝術学部 江古田校舎 西棟5階 文芸ラウンジ
    (西武池袋線「江古田」駅北口より、徒歩2分)
 参加費:3.000円(ただし江古田文学会会員は無料)
 お問合せ先:ekobunsyo@gmail.com
       (当日会場にての受付もできます)

 昨夏に続いて、二回目のお役目だ。「文章教室」と云ったって、法律家やビジネスマンや役人になるための文章なんて、私に解るわけない。しょせんは文学の文章だ。これから小説を書いてみようと考え始めた初学者に、文章の初歩的な初歩の初歩にあたる諸問題について語って欲しいとのご用命だ。
 高邁な学問に関わる問題は避け、七面倒臭い言語哲学にも触らない。もとより私自身が、さようなものを面白いとも大切だとも思っちゃいない。

 夏休み期間中ではあるが主催者としては、文芸学科で創作を志している学生諸君に、気分を替えた夏期講座を提供したいらしい。在籍学生は自動的に江古田文学会の会員なのだが、会費無料の特権について自覚していない学生諸君も多いようだ。OB や外部者は年会費を払っている。むろんかく申す私だって、教員在職時代も今も年会費を納め続けている。
 また来年以降、この学部を受験したい高校生をも視野に入れた催しのようだ。さような訴求相手となれば、先鋭な若手教員がキリを揉み込むような講義をしては堅苦しくなりがちなので、ここは一番、掴みどころのない雑談老人の出番ということなのだろう。
 私は私でちゃっかり利用させてもらう。日ごろめったに外出の機会がない身なのに、この日ばかりは居場所がはっきりしているわけだから、お越しいただけば面談できるし、出番過ぎれば一献の場へも移動できる。OB でないかたには、藝術学部の構内をご案内することだって可能だ。つまりはお逢いする機会のないかたとのオフ会と位置づけられれるわけだ。

 初歩的な初歩の初歩を語ると申しても、内容に手心を加える気は毛頭ない。だいたいからして、さほどの内容でもないことを難解そうに語るおかたを説教教授という。よく考えるとむずかしいかもしれぬことを面白おかしく語ってこその雑談職人である。素人と玄人の違いがある。
 小川洋子さんの随筆に、こんな場面があった。根を詰めた書下ろし作品がついに脱稿して、明日は編集者に手渡すという前夜のこと。最終推敲をかねて微細部分のきめ細かい仕上げにかかった。作中の〈視線〉という語をすべてつぶして〈まなざし〉と換えた。
 この随筆を読んで、「なんでえ、〈視線〉を〈まなざし〉に換えれば芥川賞作家で、芥川賞選考委員かよ」というような感想を抱いた人間は、文士を志望してはならない。今すぐ別の志を立て直したほうが無難だ。人生を過たずに済む。

 ここには音感や語感の問題がある。文章の硬度や速度の問題もある。ひっくるめて、漢語は意味をくっきり確定させ、和語は調べを奏でると、小川さんは云っておられるのだ。〈調べ〉が解りにくい初学者にはとりあえず〈陰影〉〈ニュアンス〉と云い換えておいてよろしい。この場合に限っては。むろん小川さんは、そんなことひと言もお書きではない。だがさよう云っておられる。
 速度感重視の文章と色彩感重視の文章とを読み分けられぬようなら、また意味重視の表現と調べ重視の表現とを時と場合で書き分けられないようなら、文学表現の玄人への道は無理である。
 人間的優劣とは何の関係もない。国語感覚の問題であり、日本語の性質と種類の問題である。法律の日本語もあればビジネスの日本語もある。広告の日本語だって通訳の日本語だってあるだろう。ごくごく狭い、文学表現の日本語分野においてはかようだと申すまでのことだ。
 この件を、学会共同体内部の方言で若者に伝えようなんぞと企てれば、きわめて武張った教場演説となる。学問コンプレックスから逃れて平明に語れば、夏期講座となる。