一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

熱暑対策


 名店と提携した、一流メイカーの商品だ。大好物だが、日ごろ自分では買うことがない。理由は明快だ。ディスカウント・スーパーにて、廉価の商品から順に手を伸ばすのが習慣だからだ。
 おまえは味音痴だから、さようなことを云って涼しい顔でいられると、しばしば嗤われる。当っていよう。が、反面こうも思う。高級品や有名品や老舗の伝統品には、さすがの値打ちがあると感じ入るものが、たしかにある。けれども、有名商品と私が日常手を伸ばす大衆消費品との間に、味や品質において価格の差ほどには違いが感じられぬ品物も多い。だがそれも、微妙なようでも決定的な違いというものが、おまえには判らないからだと云われれば、なるほどさようだろうと黙るしかない。

 調布市在住の親戚から、調理済みのカレーやシチューの豪華詰合せを頂戴した。年に数度の、ささやかな贅沢ができる。ありがたい。
 お仕事ぶりにおいてもご家族構成においても、わが親戚にあってはまず理想的なお健やかさと、私なんぞからはお見受けするご一家だ。むろんその健全さを形成し維持してこられたご夫妻の努力の内実については、なにひとつ存じあげない。無責任な感想だ。

 所は調布。大昔の関東の中心地である。地方行政の中心を府中と称び、国で定めた信仰の中心地を国分寺と称んだ時代のことだ。調布は行政府(府中)に隣接する、税収入の役所なり機関なりが設置された土地だったのだろう。
 申すまでもなく、当時の税制は租庸調だ。租は年貢米を中心とする産品による納税だったろう。庸は建築土木ほかの奉仕に肉体労働を提供することによる納税だったろう。そして調は、什器家具、農具工具、布や紙そのほか、生活工芸品や特産品による代替納税だったろう。調布とはさまざまな調の品を布に換算した集散地だったのだろうか。それとも調の制度を「布(し)く」すなわち税制を管理する地ででもあったのだろうか。そういえば国家の直轄地があったものか、国領なる地名も市内に残っている。
 歴史に暗い私一個の妄想に過ぎぬが、この界隈を調べ回れば、忘れられかけた幾多の痕跡が確認できそうな気がする。すでに調べ上げられた文献やら報告やらも、きっと多いことだろう。

 拙宅から遠くない地域にも、上落合下落合、上石神井石神井、上井草下井草などの地名が残る。地名に残る上下(かみしも)は、府中に近い側が上手(かみて)であり、府中から遠い側が下手(しもて)である。江戸城(皇居)とはなんの関係もない。たかが三百か四百年の由緒ではないのだ。
 地形や地味や、灌漑耕作にまつわる地名の由来は、明治維新どころか江戸開闢なんぞよりもはるかに旧いもので、私ごとき地方から都へと流入した家出人か国内難民の子孫なんぞが、わが物顔で手を着けることなど許されるものではあるまい。南○○北○○、○○が丘○○タウン……、言語感覚に疑問を抱かせる程度をはるかに超えた、稚拙または醜悪としか申しあげようのない地名が、首都圏にどんどん増えてゆく。そのことになんの痛痒も覚えぬ人間が、日本人の大半となってしまって久しいということなのだろうか。

 ともあれ、調布から高級カレーが届いた。当方この陽気で、のべつ頭がボーッとしている。ピリッとした好ましき刺激を身に与えて、来る残暑に備えよとのかたじけなきご忠告。ありがたく、さようにさせていただくといたそう。