一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

少数意見

 
 これだけは珍しく、どなたにもご同意いただけるであろうこと。

 スイカやメロンを食すさいに、どこまでを実として賞味し、どこからを皮として残すかという問題。スプーンを使いながら、この件を考えたり迷ったりしたご経験のないかたは、まずいらっしゃるまい。
 なにを想っても、それを口にすると世間の少数意見となってしまうらしい、わがままにして片寄った自分の性格を、つね日ごろから情なくも呪わしくも感じてきたが、この件に限っては、自信がある。

 問題はその先である。世に推奨される「食べ頃」と、自分にとっての最良の食べ頃とは、必ずしも一致しない。好みの問題がある。
 完熟手前でいただけば、身に歯応えがあり、野の香・草の香がかすかに残り、新鮮さに満足感が湧く。その代り、食べ残す皮部分は厚くならざるをえない。
 完熟過ぎていただけば、甘さはいちだんと増す。ただし組織の一部に崩壊および液化現象が始まっていて、果実としての歯応えの新鮮さは喪われかける。その代り、残すべき皮部分ははるかに薄くなる。

 若い時分は、完熟手前にかぶり付くのが好きだった憶えがある。今は逆で、それでも新鮮な果物と称べるかと罵られても、完熟過ぎの甘味を味わいたい気がしている。感性の自然な老化現象だろうか。それとも、歯の健康や口腔周辺の筋力低下による、咀嚼力や嚥下力の減退によるのだろうか。おそらくは、いずれでもあるのだろう。
 だが老化だの減退だのといった言葉ばかりを並べ立てられるのは、癪にさわるので、味覚が円熟したのだと強弁している。それも口にすると、強がり負け惜しみと、さらには老人の偏屈居直りと観破られるから、人前では言葉に出さず、自分自身に対して云い聴かせるように強弁しているだけだ。
 曰く、若さに光り輝く女優さんはご免だ、大台以上の熟女に限ると。はしたない喩えでも、口に出さないのでへっちゃらだ。自分自身への説得としては腑に落ちる。

 で、到来物のメロンをいただく。種子とそれらを包み保護しているワタ部分は、グラスに採り、少量の水に溶いてから、眼の細かい金網杓文字で漉す。少量ながら、まことに濃厚なメロンジュースが取れる。種子はきれいに洗われたごとくだ。
 予想したとおり、実は完熟だ。一部分は自己崩壊を始めて、ジュースに移行しかかっている。四分の一カットにすると大量にこぼれてしまいそうなので、贅沢にも二分の一カットにていただく。これで最後の一滴まで逃さない。皮として残す部分もきわめて薄く済む。まさしく大台の熟女だ。

 皮はこのあと包丁で細かくして、種子とともにビニール袋に収めて冷蔵庫行きだ。近ぢか草むしりするさいには、掘った穴に枯葉枯枝類とともに投じる。メロンの皮の発酵力は抜群で、ともに埋め戻した植物残骸が土に還る期間を著しく短縮してくれる。
 品質証明か飾りかで、つい最前まで付いていた丁字形の蔓まで含めて、頂戴したメロンは一センチも無駄にはならない。
 お若い友人のご厚情による、年に一度の贅沢である北海道夕張のメロンは、東京豊島区にて余すことなく成仏の運びとなる。私の自己満足度はすこぶる高いのだが、このこだわりはやはり、少数意見ということになってしまうのだろうか。