一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

伯父孝行

 米処の親戚から、保存のきく主食の詰合せをお贈りいただいた。さような言葉は実在しまいが、私勝手に「農協セット」と称ばせてもらっている。いかなる身の上となろうとも、けっして無駄になることのない実弾である。ありがたい。

 その親戚とは、従弟の夫人とお子たちだ。家長だった従弟は他界した。したがって血縁という点だけ考えれば、かなり遠縁ということになる。だが家風だろうかお人柄だろうか、従弟が没してからすでにかなりの年月が経つが、親しくさせていただいている。
 ご遺族もさることながら、早逝した従弟の人柄が格別だった。人懐こく話し好きで、つねに人を笑わせ自分も笑顔だった。けっして自分を巨きくも賢くも見せることのない男だった。
 兄がひとりあった。文句つけようのない頭脳明晰で秀才の兄は、県庁所在市の大学を出て、その地で開業医となったが、弟はなにごとによらず優秀な兄を立て、一歩退いて周囲をなごませた。郷里の市に留まって夫人ともども、父母(私の伯父と義伯母)を最期まで看た。

 人並み以上の金儲けも道楽もしなかったが、よく気がつき躰の動く男で、家族と市街地に住みながらも、産れ育った環境を懐かしんでか、しばしば山の村を歩いたりもしたらしい。「きのう山へ入ったから」と添書き同封のボール箱が、私にまで届いた。
 たいていはワイシャツの箱だったり靴の箱だったり、あり合わせのボール箱をガムテープでぐるぐる巻きにしたものだった。中身は古新聞にくるまった蕗のトウだったりタラの芽だったり、茗荷だったりした。畑のものとは違う。形も大きさもまちまちで、ひねこびたのや泥だらけのや、花が開きかけたのまで混じっていた。古新聞は湿りきって、ボール箱にまで染み出しているような荷物だった。
 私はあ~ァとため息をつきながらも、涙が出た。

 伯父と義伯母との家は山の農村にあり、旧くからの自作農だった。いつからさような言葉ができたものか、ただ今云うところの古民家である。すなわち母の実家だ。私が臍の緒を切った家でもある。嫁して横浜に間借り暮しだった両親は貧乏のどん底で、おちおちお産もおぼつかなく、母は実家へ一時戻って私を産んだ。
 小学生時分には、拙宅はすでに東京へ引越していたが、夏休みというとこの家に預けられた。蛇の捕まえかたも湧水の汲みかたも、私はこの山村で覚えた。従兄弟たちから教わった。母の兄の一家だから、系図から申せば従兄たちのはずだが、私より齢上の秀才兄は従兄で齢下の茗荷弟は従弟という気分がある。
 老いて病を得てからは、古民家の管理はひとに任せて、伯父と伯母は市街地へ出て、従弟ご夫妻の看護下に入った。遠く県庁所在市にある従兄一家は、別家族のごとくだった。

 これが最後の入院になるのではと、伯父の病状が危ぶまれ始めたころ、今ならまだ話せるというので、母と伯父とが長電話したことがあった。ふいに母が受話器を持つ手を私に伸ばしてきた。お前と話したがってるよ。初めてのことだった。
 「おじやの噺、読んだ。よく、憶えてた、もんだ。おかげで、久しぶりに、湯気も、味も、思い出した。美味そうだったね」
 受話器の向うから、力弱い声が耳に届いた。

 当時私は地元有力紙『新潟日報』に、小さな週一連載コラムを持っていた。とある一回に、山村の旧家での朝食について書いたばかりだった。土間から上ったすぐの、居間も食堂も応接間をも兼ねた広間には、大きな囲炉裏が切ってあり、煤で黒光りした自在鉤が天井から下っていた。ふだんは鉤に薬缶が掛けてあるが、食事どきになるとこれも黒光りした大鍋に掛け替えられる。昨夜の味噌汁の残りに、刻み野菜だの細かくした鯨の皮だのを加えて、冷飯をぶちこみ、ぐつぐつ煮立てる。椀の底に敷いた冷飯の上に、粗削りに削り出した木製のしゃもじで、熱あつのおじやを豪快にぶっかけるのである。
 なにが田舎風といって、世にこれほどの田舎料理もあろうはずがなく、また憶え知る限りでは、もっとも美味かった朝めしである、というような記事を書いた。伯父は、それを読んでくれたようだった。
 その電話が、伯父と交した最後の言葉となった。東京へ出て苦労した妹のあのドラ息子が、県下最大部数の新聞にこんな記事を書いていることを、長きにわたる闘病で弱った神経にはいかに受取られたのだったか。まことに身勝手な恥かしき思い込みにはちがいないが、世話をかけっぱなしだった伯父にミクロの孝行ができたのかもしれない。いや、心配の種をまたひとつ、増やしただけだったかもしれない。解らない。
 大助かりの「農協セット」をお贈りくださったのは、その伯父の息子夫人と孫たちである。

 ところで連載コラムは、とある通信社から地方新聞四紙に定期配信されたもので、数本から四本(ひと月分)書けると、銀座八丁目のビルまで持ってゆくことにしていた。翌月分の原稿を持参すると、常務さんが出てこられて、
 「おじや、佳かったですよォ。あたしにも憶えがありますとも。ま、その時代のものとは、かなり違うかもしれませんが」
 削りこそ粗っぽく見せてはあるが、体裁よく表面塗装された、可愛らしいしゃもじを一本くださった。冗談じゃない。柄の長さも、皿の大きさも、この倍はありましたとも。だいいち加工したままの白木で、ニス仕上げなんぞしてはありませんでしたよ。
 だが大学登山部ご出身で、海にキャンプにとアウトドア趣味にご熱心な常務さんとは長年のお付合いだったから、お気持は手に執るがごとくに伝わり、ありがたく頂戴してきた。今もわが台所にあって、休眠中のナイフ・フォークやいただきものの夫婦箸などと一緒くたに、引出しの奥に横になってある。

 その常務さんだが、骨折もした、手術も受けた、血圧も危ない、早くだれかに譲りたい、譲らねば……。お会いするたびに愚痴ばかりこぼされるが、まだ社長さんでいらっしゃる。