一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

風物誌


 郷里の老舗による保存食の詰合せが届いた。これも従兄によるお心遣いだ。それぞれいかなる食品か、たしか昨年の日記に詳しく紹介ご披露した憶えがある。今年もこの季節が巡ってきたと気づかされる、いわば風物誌のごとき年中行事のひとつといえる。

 お贈りくださったのは母方の従兄だ。いや長年さように称ばせていただいてきているが、系図を正しく辿れば、わが亡母の従弟に当る。わが祖母と従兄氏の母親とが、齢の離れた姉妹だった。戦前期の大家族にあっての長姉と末妹だ。
 祖母は山村の本家百姓に若くして嫁いだ。末妹だった大叔母(おおおば)のほうは昭和の戦雲にもみくちゃにされるように苛酷な運命に弄ばれた。晩婚であり、外地フィリピンに長らく暮したあげく、戦況悪化により帰国しなければならなかった。その結果、ようやく生れた息子は系図的にはわが母の従弟だが、私と同齢だった。
 幼い時分から知合った仲だったし、彼が東京の大学に進学するに及んでからは、まことの従兄としか感じられぬ間柄となった。郷里に職を得て、学生時代に知合った新婚夫人を連れ去るように伴って帰郷していってからも、ごく親しくさせていただいてきた。それどころか、遠隔地の私には知るよしもない郷里の遠縁一統の事情を、おりに触れて耳に入れてくれるのは、親戚中でもまず彼だ。

 村上の鮭のお礼を昨日申しあげたのは、父方の従兄である。二人の従兄は拙宅を介して双方遠縁に当られるわけだ。が、同世代の地元在住者同士。しかも片や保険代理業務を勤め上げ、同時に地域防災活動の普及に尽力。もう一方は市役所職員として定年まで勤務。なにかにつけて顔を合せ噂を耳にし合う間柄らしい。
 しかし人間関係とは不思議なもんで、顔を合せればどうしたって、地元の時局の話題や業務上の用件に終始してしまう。地元の大原発に関する問題があり、中越地震もあった。北朝鮮から地元へ蓮池さんが帰国された話題もあった。東日本大震災津波災害の後には、福島県民の一時居住を大幅に受入れたから、街なかを歩くと知らぬ顔ばかりだと苦笑し合ったりもした。立場上も業務上も、お二人のあいだに話題が尽きることはなかったのだ。

 いきおい、親戚の婆ちゃんがここのところ物忘れがひどくて往生してるだの、あそこの孫娘は東京の大学へ行ったきり、なんでも西日本の会社へ就職したらしいだのといった情報は、私を介して交換されたりする。私はといえば、その婆ちゃんにも孫娘にも、一面識すらない。法事などで同席したことはあるのだろうが、少なくとも記憶してはいない。
 もしも私が獅子文六であれたなら、井伏鱒二であれたなら、ジジイ三人の奇妙な三角関係を面白おかしい読物に仕立てることができたかもしれない。いや、才能なんかなくたって、地道な心掛けさえ持続しておれば……。
 すべては手遅れというものである。そんなことを改めて思い出させる、年に一度の風物誌としての、漬物と鮭だ。