一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

遅々として



● 十個ほどの食器が、一気に割れた。東日本大震災では、この十倍も割れたのだったろうから規模は比べものにならぬが、それ以来の大量損壊である。
 食後の盆を洗い場に運ぶ。調理台と俎板には皮剥きを済ませた野菜類の水切りボウルが並んでいたため、盆を半分ほど台に腰掛けさせるようにさせて右手で支え、左手で蛇口を捻って洗い桶の位置を定めようとした。粗雑であり、その原因は不注意であり、さらにその原因は耄碌である。盆が傾き、やがて床に落下した。傾いた一瞬に、まず食器たちが滑るように落下してゆき、盆がしんがりとなった。
 丼とその蓋、マグカップ、小鉢類、皿類、ひと箸総菜用として重宝しているショットグラスなどが、ことごとく割れた。打ち処が好くて助かったものはなかった。助かったのは箸とスプーン、それに陶器ではあっても小型で厚手の箸置きだけだった。

● 珍しく北寄りの強風で、しかも微妙に方向を変えて渦巻いたと見え、拙宅塀ぎわや駐車スペースに降ったはずの落葉たちが、向う三軒がわへといっせいに吹寄せられていた。真夜中に目視したが、あいにく火を使っていたので、夜明けを待って掃き集めに出た。
 箒の音を忍ばせて、まずは粉川さん邸の戸口前から始めて、ご門前の側溝に沿った往来を掃く。最新の注意を払ったつもりだったが、お隣の音澤さん邸の玄関灯が点いてしまった。五時四十分である。
 ややあって、芝箒と塵取りとを手にした奥様が出て見えてしまった。私が黒ランドセルだったころ赤ランドセルだった人である。
 「ごめんね、俺んちのせいなんだ。俺が掃かしてもらうから。ゆうべは風がいつもと違ったんだ」
 「いーえ、大丈夫ですとも」
 さっさと箒を使い始めてしまわれた。
 「じゃあ内側だけにしといて。往来は俺の責任だから」
 音澤家では東京都との交渉を手早く済ませてしまわれて、この夏に塀もご門も数メートル引込まれた。敷地と道路との間には、手すりのようでもガードレールのようでもある白塗りの金属構造物によって囲われた「道路建設予定地」がある。その内を奥様、往来を私である。幸いにして落葉は新しい塀の向うの敷地内にまでは達していなかったようだ。地面を転がり移動しただけで、吹きあげられることはなかったらしい。
 この季節、あたりはまだ暗い。道路で箒を使う老人と老婆とを目撃する人がもしあったら、どう見えたことだろうか。
 「余計なお手間をおかけしてしまって、ほんとうに申しわけございませんでした」
 平身低頭、最敬礼したことは申すまでもない。

● 台所へ戻る。火を止めたまま粗熱を取っていたカレーの鍋の蓋を開け、味見する。ルウと同時にマーガリンをかなり投入してみたのだが、果たして。ウーン、悪くはないが、やはり焦し玉ねぎを増量したほうが効果的なようだ。
 焼き上げたまま冷ましておいた出汁巻玉子焼きに包丁を入れ、タッパウェアに収める。
 テーブルに着き、手元の光量を上げるスタンドを灯し、拡大鏡つき老眼鏡をかけ、クリップされた原稿束を開く。とある新人文学賞選考のお手伝いを請負っていて、まさに佳境を迎えている。野心だの冒険心だの夢だのがうごめき身もだえし、時には壮大な勘違いを冒したりしている予選通過作を、味見させてもらう。未来の作家は、台所にて発見される。

 家事中心の一日が過ぎていった。生きてるあいだにせめてこれだけは精読に及ぼうと、かねてより念じている大長篇があるのだが、読書は一ページも捗らなかった。
 割陶・割ガラスを収めた袋を手に、玄関口へ降りる。脇へ重ねておいた、欠けた素焼き鉢類を一緒にして、割れもの不燃ゴミの袋を完成させた。もう陽が高い。眠るつもりだ。 

 遺影(使い回し写真)。破端あり遅々あり、ナンチャッテ。