一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

過ぎちゃって

 キャ~ッ、どなたか助けてェ、教えてくださ~い!
 今朝起きて、ツイッターをチェックしようとしたら、バツになっちゃってる~ッ!
 そんな奴、おれへんやろー大木こだま)。

 世界中に浸透しているにちがいない呼称やロゴマークが、一瞬にして変更されてしまう経営事情ってなんなんだ、どうなんだと、いかにもありそうな甲論乙駁が一部で交わされている。かと思えばこんな達観ご意見も眼にした。「そういう応酬自体がごく一過性のものに過ぎなくて、一年経つか経たぬかのうちには、そういえば鳥のマークだった時代もあったよねぇと、稀に回想されるようになるんじゃねえの」。たぶんそのとおりだろう。

 アメリカ在住の日本人物理学者から、かような逸話を伺ったことがある。企業の開発部門の方針転換で、ある部門を閉鎖することになった。たしかコンピュータと宇宙開発を残して、バイオを捨てたんだったか。放棄される部門については、部門リーダーから研究者・関連業務社員・施設整備管理者から守衛・雑役にいたるまで、いっせいに退職要請となり条件交渉に入ったという。
 日本の企業であれば、閉鎖部門に所属する研究者や社員の人事考課を検討し、研究能力や愛社精神を計って、有為の人材は他部門へ異動させて残そうとするだろう。アメリカの企業はドライで手っとり早いという一例のお噺だった。
 今の情勢はまったく知らない。なにせ「今度入ってきた新人が、えらく出来る奴だって噂だ、ビル・ゲイツって若者なんだが」という時代だから、噺は古い。が、お国ぶりというもんは、そうやすやすとは変らぬのではないかとも思われる。

 ツイッターの青い鳥に哀惜の念をおぼえる度合いは、アメリカ人より日本人において多くかつ深いのかもしれない。俵万智さんが新制「X」に投稿した時局詠にたいして、多くの共感が寄せられたそうだ。

俵万智。「スポニチアネックス」当該記事より、無断で切取らせていただきました。

   言の葉をついと咥えて飛んで行く小さき青き鳥を忘れず
   このままでいいのに異論は届かないマスクの下に唇をかむ

 お変りなく伸びやかきわまるご声調。お元気そうで、なによりだ。ご両親をお手助けなさるべく仙台へ移られたとの報道を、眼にした記憶があるが。

 ときにこれを報じたウェブ媒体が打った見出しはかようだ。
 ―― 俵万智さん、社名変更のツイッター詠んだ短歌にネット感動「これがプロか」「完璧過ぎる・・・」
 編集部もしくは記者が云うのではなく、ネット投稿者がそうおっしゃるのですと、まずもって「」「」で逃げてある。そのうえで「完璧過ぎる」と。
 申すまでもなく、いつかどこかでどなたかが対面会話のなかで、語法の不正確よりはニュアンスの生鮮を重視したくて使い始めたのだったろう。いかにも面白いというので模倣され、伝播増殖していったのだろう。それがトリッキー(破格)な云い回しであることを承知のうえで、冒険的に用いられているうちは、まだしも無難だった。やがてもともとの語法を弁えぬ世代が現れ、これが新登場の意図的用法などではなく、昔からあった日本語だと信じて疑わぬ様相を呈するにいたった。ピジンクリオール言語化したというべきか、冒険的表現が毒を喪って通常表現化したというべきか。

 私の語感にあって「完璧過ぎる」とは、あまりに体裁が整い過ぎていて愛嬌にも面白味にも欠けるという意味である。この食事が「豪華過ぎる」とは、あまりに豪華でこの場にそぐわない、もしくは私の口に合わないという意味である。彼って「親切過ぎ~」とは、あまりに親切で気味が悪い、ひいては下心ありそうで信用できないという意味である。
 俵万智さんの二首を、微笑ましく読んだ。ごく軽い連想・頓知・語呂合せを詠み込んで、大声でもつぶやきでもないなだらかな声調にまとめた、伸びやかな生活詠と思う。
 恩師窪田章一郎の『全歌集』をペラペラめくっていると、日記代りとでも申そうか、日常卑近な出来事をあまりと云えばあまりになだらかな声調をもって、なんということもなしに平然と詠みいだしてあるのに、呆気にとられる。若き日には、もう少しなんとかならぬものかと、身のほど知らずな感想も湧いた。今は、得がたきものと思う。

 痛切な想いであるかに研ぎ出して見せれば痛切な歌となるべきところを、あえてゆったりと詠んで見せた俵万智二首を、さすがプロの手わざと讃えたければ、反対は申しあげない。プロって、また俵万智って、それっぱかりのもんじゃありませんよと、あとから小声で註釈しておけばよろしいだけのことだ。が、完璧過ぎるとはナニゴトであるか。