「やれやれ、今日もけっこうなお日和で……」
往来でご近所さんとのご挨拶。先方もトホホという表情で「ほんとうに……」
情景を想像できなければ「やれやれ」の意味が解らない。「トホホという表情」の意味も伝わらない。
まことの意味は「今日も暑くて参りますなァ」「まったくウンザリです」である。
廃品回収業者さんの軽トラが通る。頭に拡声器が括りつけられ、口上の録音が繰返される。すでに聴き慣れた声だ。
―― テレビパソコン、電気冷蔵庫洗濯機、バイクに箪笥にミシン、大きなもの重いものなんでも引取りま~す。アルミサッシの交換や網戸の張替え、引越しのお手伝いなど、なんでもいたしま~す。
このクソ暑いさなかに、どんだけ体力ある人なんだ、どんだけ技術を身に着けた人なんだと、感心しまた呆れもする。昔流に申せば、生きてくってのは楽じゃねえなぁ、といったところだ。
気に入ってるのは、口上の末尾だ。
―― そのほか、判らないことはなんでも、お訊ねくださ~い。
これは好い。じつに面白い。ぜひ一度、訊ねてみたい。
「色即是空の〈空〉がなんにも無いということじゃなくて、つねに変容してやまぬことだというところまでは解ったんですが、果てしなく変容していった最後は、さてどうなるんでしょうか?」
オチョクッテんじゃねえぞジジイッと、どやしつけられるのがオチだろう。「なんでも訊ねろっておっしゃったもんで」と口答えしたところで、非は当方にあると、通りかかったどなたにも叱られてしまうことだろう。
意図を察しないで言葉尻だけを了解したからだ。文脈をわきまえずに、表面的意味だけしか理解しなかったからだ。
今日は児童公園のサルスベリ(百日紅)の、樹形などに興味が湧かず、花のそれも色だけを撮ってみたい衝動に駆られた。暑苦しい。この季節と陽気にそぐわない。メロンソーダの写真でも掲げておいたほうが眼に涼しげで、はるかに気が利いているとは百も承知だ。
けれどあと十日もすれば、暦の上では秋ですな、というご挨拶となる。今年の稲の作柄は、という話題が始まる。今年の台風予測は、という心配が始まる。なんて暑苦しい色なんだと閉口しながらも、たわわに満開のサルスベリを眺められるのは、あといく日あるかないか。来年もまたという楽観は、老人には禁物である。保証はない。
今でこそサルスベリだが、昔この場所にはキョウチクトウ(夾竹桃)の立派な株が植えられてあった。やはり猛暑のさなかにドギツイほど精力的な赤花を満開にさせたものだった。
惜しむらくはキョウチクトウには毒があった。経口からも皮膚からも体内に入ると、吐き気や下痢や目まいの症状を起した。毒は葉にも花にも、枝にも幹にも根にもあった。周囲の土壌にも毒が残り、燃やした煙すら毒で、腐葉土に加工しても一年間は毒性が残るというしぶとさだ。
いつの頃だったか、不用意に口にした児童が中毒症状に見舞われた事故が、大ニュースとして報じられた。もともと西南戦争の兵士が枝を伐って杖としたために中毒を起こしたと伝えられるキョウチクトウである。これを口にするほうがどうかしている。管理者・保護者の問題であり、家庭内教育や社会常識の問題であるべきだった。
風評に脆く、クレームに弱い自治体行政のつねで、かつてはご近所あちこちで珍しくもなく眼にできたキョウチクトウが、またたく間に街路樹や緑地植栽から消えていった。全国規模でである。条例が発せられた県もあったような記憶がある。
今なおキョウチクトウを観賞できるとすれば、古風で頑固なご家風の個人宅で、庭木としてしっかり管理されてある株であって、運好く眼にした場合には、立ち停まって眺めさせていただく値打ちがある。
昨日かなり大柄なミミズが行倒れていた飛石に、その骸はすでになかった。残骸も染みすらも残さず跡形もなく消えているところを視ると、蟻や小虫たちによるのではなく、鳥の仕業にちがいない。私の眼が届かぬ払暁か早朝かに、ここいらを検分して回っている輩があると見える。
それより後、陽が昇って気温急上昇してからの出来事だろう。昨日のより太さも長さも半分以下の小柄ミミズが、新たに行倒れている。
昨日からの文脈がなければ、面白くもなんともない噺である。