一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

古戦場から

 『佐野學著作集』〈全5巻揃〉佐野学著作集刊行会 編(1957.9 ~ 58.6)定価ナシ。奥付には「特に会員のみに配布」と明記。

 もはや読返す体力も時間も、残されてはいまい。隣室へ移動するにさえ、手順足運びに気をつけねばならぬゴミ屋敷にあって、障壁や足場や障害物や目印となったままの書籍・書類のうちで、いずこかのどなたかのお手許にあれば、今なお内容的にか資料的にか、なんらかの値打ちを発揮できるかもしれぬものは、一日も早く手放すにかぎる。懇意にさせていただいている雑司ヶ谷の古書肆「往来座」さんに、お手助けいただかねばならない。
 ただし余生の「ヘタな考え」の筋道でふと、あれにはどう書いてあったろうかと確かめねばならぬ局面が生じそうなものは、今しばらく手許に保管しなければならない。つまり出すものと残すものとの分別は、私自身以外には判断できようはずもない。

 日本共産党史にも思想転向史にも、さしたる興味を示しえなかった、ただ夢見がちの高校生には、佐野学・鍋山貞親の名前が眼に止るはずもなかった。本多秋五『物語戦後文学史』、平野謙『昭和文学史』のいずれかで、または両方で、佐野・鍋山を知ったはずである。両著には共通する評価の軸があった。
 昭和八年当時、腹を空かせて歯を喰いしばり、末端の苦しい活動に踏ん張っていた学生や青年労働者たちが、心の師とも精神的支柱とも仰いでいた、日本共産党の理論的指導者の一角であった佐野・鍋山両名が、検挙された獄中にあって転向声明を発表した。
 曰く、獄中にあって仏典や国学の書を耽読精読した結果、これまで鼓吹してきた共産主義思想はすべて誤りだったと痛感した。今こそようやく眼が啓いたと。
 信奉者だった青年たちの動揺は激しかった。尋問なり拷問なりに屈して、指導者たちは節操を貫けなかったのだと受取られた。これを機に、国家権力による弾圧はいっそう勢いを増し、左翼運動の前線・末端はとめどなく崩壊していったというのが、戦後批評史における常識だった。それ以上みずからの眼で確かめてみる必要のない基本公理だった。当然ながら、魯鈍な高校生は、これを疑わなかった。

 待てよォ、そう一面的に決めつけるのみでは片づくまいにと思い始めたのは、大学で活動家学友たちに半ば共感しながらも、全面的には同意できぬ自分を持て余すようになってからだ。吉本隆明『藝術的抵抗と挫折』に収録された「転向論」という中野重治論に眼を惹かれた。久野収鶴見俊輔藤田省三による座談会形式の共著『戦後日本の思想』も巨きかった。それらの導きにより、思想の科学研究会編『共同研究 転向』(全三巻)に辿り着き、ようやく自分なりに考える糸口に立った。留年を重ねて七年在籍した大学生活の五年目くらいだったろうか。鋭敏にして頼もしき学友たちは、ほとんど卒業してしまっていた。

 『鍋山貞親著作集』〈上下巻揃〉鍋山歌子 編(1989.5)星企画出版 発行、古川書房 発売、当時定価(上)1500円、(下)1800円

 いかに尊敬する著者による信頼できる著書の記述であれ、確たる自説として援用するのであれば原典へと遡れ。大原則とはしたものの、基礎勉強を怠り、学識不足の私にとっては、容易なことではなかった。解ることのみ理解し、解らぬことは断念するしかなかった。あっちでもこっちでも、断念した。
 その代り、自分の日本語力で追いかけられるものについては、近代だろうが国漢だろうが、しつこく追いかけた。古本屋歩きが道楽のようになった。恩師のもとに参上せぬ齢になってからは、古本屋の親爺さんがたや番頭さんがたから、数限りない教えを受けた。
 いつかかならずこれが必要になる。ここまで遡らねばならなくなる。さよう直観したものは、手元に置くようにした。目次と触り部分とあとがきだけにしか眼を通してない文献が、山となって拙宅ゴミ屋敷を形成している。

 日暮れてなお道遠し。佐野学を出す。鍋山貞親も出す。