一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

前線の見識

 永山正昭『と いう人びと』(西田書店、1987)。こういう本は、けっして古書肆に出したりはしない。

 著者は海員組合でひと苦労したあと、「しんぶん赤旗」の編集部員だった。労働組合運動隆盛の戦後期にあってさえ、ひときわ激しかったとされる船員組合の逸話は、現在となっては伝説だろうが、その時代を知る著者である。
 が、本書は労働組合運動史でも日本共産党史でもない。折おりに接した先輩知友の人柄を偲ばせる逸話集にして、人物回想録である。十名を超える人びとの横顔が回想されてあるが、労働運動や党活動のなかで接した人だろうから、私ごときが名を知る人はほとんどない。中野重治広津和郎くらいのもんだ。

 七曲り八曲りあった日本共産党史のなかで、入党・脱党・復党・除名、数かずの遍歴を経ねばならなかった中野重治が、あるとき党中央へ抗議すべく窪川鶴次郎を伴って本部へやって来た。怒鳴りこみに乗込んで来たというほどの血相と勢いだった。
 下っぱの党員である著者は、日ごろ尊敬する中野が脇を通り過ぎるさいに、深ぶかとお辞儀した。立腹し興奮してさえいたはずの中野は、横目で著者に気づくと、丁寧に目礼を返したという。今から論争もしくは喧嘩しに向う相手の子分に対してである。
 その態度物腰が、じつに立派だった、偉かったと、著者から記憶された。

 松川裁判の特別弁護人だったことから広津和郎には、日本共産党員や左翼系弁護士らとの往来繁き時期があった。被告関係者や一部党員からは、ことのほか尊敬された。裁判を経るうちに、広津と親しく口を利き合うようになった被告も関係者もあったが、著者は敬愛する相手への遠慮のあまり、積極的に話しかけることがためらわれた。
 妻の伯父(叔父?)は退職した小学校校長だが、広津とは小学校の同級生で、高齢となった今も少年期に広津の級友だったことを誇りとして暮していた。広津は憶えているだろうか。伝えてみたい、言葉をかけてみたい。だがかような私事なんぞで……。
 身近に侍る機会はいく度かあったが、尊敬のあまりのわきまえ・慮り・遠慮から、ついに切出す機会がないまま、裁判は全員無罪で結審してしまった。松川裁判がなければ、広津和郎には日本共産党に用事などない。広津に近づく機会は、それきり著者に訪れぬまま、新聞で広津訃報を眼にすることになる。
 温顔にざっくばらんの噺ぶり、江戸前言葉のやや早口、ときおりキッと鋭くなる眼差し。この人は凄い、偉い、という印象だけが著者に残った。

 著者は間違いなく中野重治を、広津和郎を視届けた。ひと言の言葉をも交さなかったけれども。生半可な中野重治論や広津和郎論よりは、本書のほうがよっぽど、中野・広津の人柄を想像することができる。
 さような目撃体験を大事にして活動している、前線の活動家がある。語弊を恐れずに申せば、身を粉にして日々を過す下々の党員がある。たとえ頭が腐っても、末端は遠慮とわきまえの範囲を守って、懸命である。
 「お父さんには、運があるんだね。好い人の偉い部分にちょうど居あわせて、心の支えの想い出になる。運が強いんだ」
 文中で夫人はおっしゃる。それに深く頷く著者がある。
 いえいえ奥さん、それは違います。旦那さんがその瞬間を視逃さぬほど立派だったので、想い出が残ったのです。きっとそうです。