一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

身のほど学


 小田切進 編『現代日本文芸総覧』全四巻(明治文献、1968 - 73)

 たとえばプロレタリア文学史を読んでいると、『種まく人』『文芸戦線』ほかの雑誌名が頻繁に出てくる。どんな人たちが書いていたのだろうか。第一巻に目次がすべて出ている。たとえば新感覚派について読んでいると、『文芸時代』という雑誌名が出てくる。横光利一川端康成のほかには、どんな人たちが書いていたのだろうか。第二巻に出ている。
 『朝』には尾崎一雄のほかだれが。『驢馬』には中野重治堀辰雄のほかだれが。『青空』には梶井基次郎のほかだれが。『白痴群』には中原中也のほかだれが。いずれも目次がすべて第二巻に出ている。
 日本現代文学に足跡を残した小雑誌・同人雑誌の、大正期から昭和二十年までの刊行ぶんについての総目次が、漏れなく収載されてある。ただし『中央公論』『文藝春秋』のように版元責任において総目次が刊行されてあるものは除かれている。
 まずは全三巻編成だったが、あまりに重要なものが抜けているとして、『白樺』『奇蹟』『コギト』ほかが補巻として追加され、全四巻として完成した。いずれの巻を開いてみても、壮観としか云いようがない。

 編者は小田切進。申すまでもなく開設下準備段階から心血を注いできた日本近代文学館の館長さんである。歴史意識の高い文人や愛書家の手許に潜んできた原本を集め、研究目的で収蔵し、できるかぎり閲覧可能とした。末長く継承の要あるものや、広く研究資料として提供すべきものは、復刻出版を手掛けた。
 『現代日本文芸総覧』も、その活動あったがゆえの派生的成果といえよう。いわば日本近代文学館の活動余滴だ。

 図書館にワンセットあればいい。大学の日本文学研究科にワンセットあればいい。だのになぜ、私ごときの手許に全巻揃ってあるのか。
 長い留年生活を切上げて就職することになった。曲りなりにも、そして遅まきながら社会人になるというので、いささか緊張していた。これからはそうやすやすとは恩師に相談できないのだ。大学の図書館にも、自由に出入りできないのだ。日本近代文学館へ気軽に出かけるわけにもゆかなくなる(同館は週末休館で、平日のみ開館だった)。だったら古本屋を歩くのだ。自分で調べるのだ。大学院でお行儀好く勉強している連中なんぞに負けてはいけないのだ。
 後年想えば恥入るばかりの、幼稚な気負いであった。これがあれば初出が確定できる。調べごとの底が支えられる。安心だ。百人力だ。さよう思って、初任給には不釣合いな価格だったが、一括で買い揃えた。

 申すまでもなく、身のほど知らずな買物だった。私には学問の才能など皆無だ。学術論文は究明であり、文芸批評は表現である。お素人さんのお眼には似た恰好をしていても、理念も精神も、技法も文章作法も、まったく異なる。そんなことすでに承知していた齢だったのに、気負いが蛮勇のスイッチを入れた。
 『現代日本文芸総覧』揃いを、古書肆に出す。

 津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究』全8冊(岩波文庫、1990、リクエスト復刊の箱入り)

 歴史を権力(国体・政体)維持の道具にすべきでないとの、津田左右吉の信念は、今もって誤りのない思索の根本と考える。神代史・上代史に関する最新研究の知識は皆無だが、部分修正は当然発生しているとしても、根本は津田史学でよろしいのだろうと見当をつけている。儒学と仏教の伝統形成についても、古代中国からの影響のほどを視定めようとする基本態度は、今もって妥当だろう。
 恩師小杉一雄先生からは、こと美術史に関しては日本は中国の辺境のひとつだとの視野をも持たねばならぬと教わった。師の師会津八一先生による「支那の地に立って奈良を眺めてみよ」との言葉も紹介された。
 日本人の功績を低く視るということではない。ましてや日本人の魂を売渡すなどということとは、むしろ正反対である。事実を想い描くことを誇りとせよということだ。中華思想なんぞとは縁もゆかりもない。だいいち、古代日本人が影響を受けた古代中国人は、現代の中国人の祖先などではほとんどない。

 学の片ぺんたるカケラをいくつか読んだあと、さて『我が国民思想の研究』へと手を伸ばしたのだったが、面喰った覚えがある。私にはスケールが巨き過ぎた。トインビーの世界文明史を読むに似て、単一事象の面白みは随所にあるものの、さあその全体を語ることがいったい何なのだとの、索然たる思いを禁じえなかった。しょせん私は、細部の人間的些事に注目しては、痛いの痒いのと云々することを面白がるに過ぎぬ男だと、身のほどを痛感したのだった。
 私にとっては、新書本やアンソロジー本のうちの、神代史・上代史、そして儒学や古代中国思想からの影響史のいくつかがあれば足りる。『文学に現はれたる我が国民思想の研究』岩波文庫版を、古書肆に出す。