一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

退出口


 あくまでも当方事情と視定めねばならない。先方事情ではない。つまり評価だの想い出だのは、このさい度外視である。

 文学史上の大家による過去の名作ならば、古書肆に出しやすい。同時代作家のお仕事として、刊行時に買って読んだ作品は、出すと残すの線引きが微妙だ。
 商業的成果の側面がようやく色褪せ、文学的評価が定まるのはいよいよこれからだという作品が多い。作品と出逢った時局や、当時のわが身の上など、忘れえぬ想い出が強くこびり着いている場合もある。貴重といえばどの一冊も、貴重でないものなどない。
 当時は巧く読取ることができなかった作品についても、今読返せば印象が異なることもきっとあろう。より深く理解できることも多かろう。興味はある。だがもはや時間がない。

 石和 鷹は佳い小説家だった。たしか集英社に勤務され、文芸雑誌『すばる』の編集長をなさったかただ。私小説の伝統が遠く去った空気のなかで、私小説的発想はいかに継承されいかに変形するかということを、その時期にもっとも誠実に取組み描き出しえた小説が『クルー』だった。暁烏敏(あけがらす はや)という傑出した宗教者について初めて教えられたのは『地獄は一定すみかぞかし――小説暁烏敏』だった。その他、読んだ小説はどれも、興味深かった。
 亡くなられて二十五年ほどが経ち、お若い読者層から読み継がれているとも思えぬが、いつの日か具眼の士が現れて、発掘再評価の旗を振るにちがいないと、私は思っている。遺憾ながら、それは私の任ではない。出す。

 津島佑子はわが若き日、世代のトップランナーがごとくに目された。大人びた書きぶりと思って感心したが、毛並が好いからねえとの感想も抱いた。芽の出ぬ凡才ゆえの劣等感からくる感想だったろうか。作品はもっと拝読したはずだが、わがゴミ屋敷内に散在するらしく、今は眼に着く二冊を出す。書架では隣に立ててあった、津島美知子『回想の太宰治』(人文書院、1978)は残す。夫人による回想文集である。
 新井満には敬服した。額に青筋立てて文学ひと筋といった気配が微塵もなかった。そのはずで、電通社員として映像作品や音楽作品をも物する多才な人だった。人間観も小説技法も柔軟にして穏かで、私なんぞとは無縁の人に見えた。ただ先達作家森敦への偏愛とも形容できそうな打込みぶりは凄まじく、眼が離せなかった。
 地方新聞に読書案内の記事を買ってもらっていた時分には、新井作品をなん作も取上げさせていただいた。しかし森敦関連のものと、般若心経の独自現代語訳とを残して、小説類を出す。

 辻章は落着きのある立派な作家という印象だった。たしか文芸雑誌『群像』の編集長をなさったかただ。その落着きぶりは、下司な私のアンテナなんぞには引っかかりにくい作家だ。今読めば感想は異なるだろうが、遺憾ながら時間がない。
 𠮷目木晴彦も誠実な作家で、いずれも面白く読み、コラムに採り上げさせていただいたこともある。が、やはり下司な私なんぞの出番ではなかった。
 リービ英雄目取真俊、お二人とも日本文学にとって貴重な存在だ。もっともっと注目されたほうがいい。が、その旗振り役は私なんぞではない。
 藤沢 周、町田 康、それぞれご登場のときには、あァ新しい小説家が出てきたのだなァと感じた。作品は独特な香りを発し、文章力の魅力もふんだんにあった。もうこれは私の出番は遠く去ったと、すぐに感づいた。

 今読めば、どれもこれも印象が異なるだろうことは想像に難くない。が、万事は手遅れである。出す。