一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

多様にひとつ


 「アジアは一つ」という岡倉天心の言葉が切取られて誤解され、独り歩きしてしまった噺は有名だ。

 東南アジア各国の小説に興味を抱いた時期があった。量においてはインドネシア作家の作品が圧倒的に多かったが、タイ・ミャンマーラオス・マレーシア・フィリピンの作品もある。入手してすぐさま読んだ作品もあり、ぜひ読もうと入手したままツンドクに了った作品もある。
 宗教観の相違による習俗や美意識のあれこれはあるけれども、似かよった面も多い。乱暴に申せば、近代化の悩みだ。タイを除けば、西洋宗主国にょる植民地下に育まれた習慣と、独自民族性との相克がある。宗主国の手先となって甘い汁を吸った者と、弾圧され冷飯を喰わされた者との差別がある。また都市集中の近代化過程にあって、心の故郷たる村落共同体的な価値観との矛盾や軋轢がある。

 しかし私ごときが、ほんのいく人かによる数作を読んで、軽々に感想なんぞ述べられるものではない。日本人に理解されやすい作品を有識者が選んで、優先的に翻訳・紹介されたに違いないからだ。奥深いところにまで踏み入ることができれば、国別にも作家別にも、一様でなどありうるはずもない。またそれぞれの言語についてまったく素養のない身に、表現の陰影など汲取れるはずもない。
 お国ぶりはまちまちだけれども、どの国へ伺っても、男と女はいるなあ、というほどの感想で引下がってくるのが、間違いのないところだ。つまり私ごときにとっては、アジアはひとつである。が、実際には果てしもなく多様なのにちがいあるまい。

 ホセ『民衆』(上下二巻、めこん、1991)と女性作家バウティスタ『七〇年代』(めこん、1993)、フィリピンの二作だけは残すつもりだった。が、書架から出して他作品と並べて眺めるうちに、再読する自信を失った。きっと読み通せまい。
 それより残すべきは、基礎認識の原点となる証言や歴史研究類だ。チャンダ『ブラザー・エネミー――サイゴン陥落後のインドシナ』(めこん、1999)、パニッカル『西洋の支配とアジア』(藤原書店、2000)などは残すべきだろう。いずれも大冊だ。今の私に読めるだろうか。
 未読ツンドクに過してきてしまったとはいえ絶対に残すべき一冊となれば、倉沢愛子『日本占領下のジャワ農村の変容』(草思社、1992)だろう。目次を瞥見しても、索引を眺めてみても、篤実にして魂のこもった研究だ。記憶をたぐれば、東南アジアに眼が向いたそもそものきっかけは、むのたけじ『たいまつ十六年』(私の出逢いは理論社版)だった。入口と出口ということを考えれば、倉沢さんのご業績は私にとって大切な一書かもしれない。

 が、一昨日も書いたが、問題は評価でも想い出でもない。当方事情である。これを読む力が私に残っているか。
 本日書架から抜出した東南アジア関連書籍。すべて古書肆へ出す。

 韓国へ行ってみたいと、しきりに思った時期があった。世に云う韓流ブームよりも、ずっと以前のことだ。柳宗悦の感化ゆえだったと思う。関連で浅川伯教・巧の兄弟の業績にも心惹かれた。工芸や美術や建築などを、この眼で観てみたいという気持があった。
 だが昨今のネット論壇を仄聞するに、私の関心なんぞは現在の韓国国民からご覧になると、旧日帝残滓を懐かしむ不届きなセンチメンタリズムと片づけられてしまうかもしれない。かつて旧朝鮮に対して溢れる善意を抱き、その地に骨を埋めるにいたった日本人たちの業績なんぞは、今となっては、下心から渡鮮した侵略者の手先と目されてしまうのかもしれない。
 歴史についても習俗や民間信仰についても、さしたる勉強をしていない私なんぞが、韓国を観たり、語ったりするのは、間違いのもとだ。

 韓国小説のアンソロジー『現代韓国小説選』1,2(同成社、1978)および『韓国の現代文学』全6巻(柏書房、1992)を、出す。金 芝河の詩集は書架にあって別分類となっているので、今回は保留する。在日の旧朝鮮籍作家による日本文学は、当然ながら別分類である。