一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

遠見から



 お見かけしたことはあっても、ご縁があったとは申せぬ作家たちがある。

 文藝春秋の雑誌で黒井千次さんが「学生たちに聞く」という企画があって、その「学生」の一人になったことがある。一九六九年か七〇年のことだ。黒井さんはまさに売出しの新進気鋭作家だった。仲間から誘われた私は、へェ黒井千次に会えるのかァくらいのまさしくミーハー的動機で出かけていった。TBS 社屋一階にあった「トップス」という喫茶店だった。
 時あたかも学園紛争さなか。話題は当然その方向になるだろうと予想して、埴谷雄高の評論集を何冊か、付け焼刃で読んでから出かけた記憶がある。だがそういう噺にはならなかった。
 お会いしたといっても、主役とエキストラの関係だ。ご挨拶申しあげた以外に、言葉を交すことはなかった。

 なん年か経って、同人雑誌仲間とさかんに新宿で落合う暮しだったころ、待合せは「風月堂」か「ぼろん亭」だった。黒井さんも担当編集者との打合せに「ぼろん亭」をお使いだったらしく、いく度かお姿をお視かけした。声をお掛けする身分でもないから会釈して通り過ぎると、黒井さんも会釈を返された。が、これは社会人の通例であって、黒井さんが私の顔など憶えておられるはずもなかった。言葉を交す機会は一度もなかった。

 すいぶん経ってから「野間宏の会」でいく度もお姿を拝見した。藤原書店の肝入りで年に一回、野間宏を偲ぶ会が催されていた。会長というか代表世話人埴谷雄高だったが、他界されて、二代目会長が木下順二となり、続く三代目会長が黒井千次さんだった。
 ご挨拶申しあげる機会はあったが、「トップス」の件も「ぼろん亭」の件も口にはしなかった。場違いと思ったのである。事務的・形式的なやりとり以外には、言葉を交さなかった。

 登場されたころ黒井千次は、「内向の世代」作家群の代表格と見做された。一見平凡な市民生活に細かい亀裂が入る作品を書いたからである。が、作風が押進められるうちに、このレッテルは違っていると、明白になってきた。「内向」の意味合いを、古井由吉を本線に考えてみても、後藤明生を本線に考えてみても、黒井千次は当てはまらないことが明瞭になってきたのである。
 「野間宏の会」の代表世話人を引受けられたことにも暗示されるとおり、文学的血脈としては戦後派文学を継ぐ作家だ。ただ同じく戦後派血脈といっても、小田実高橋和巳大江健三郎のように、大振り打者ではないというまでだ。

 日野啓三さんには、さていく度お会いしたのだったか。私が小久保均さんの最初の作品集『折れた八月』担当編集者として、その腰帯推薦文を頂戴しにうかがったのだった。お二人は若き日の文学仲間でいらっしゃって、相互に懐かしい好意を抱き合っておられた。推薦文のご希望を著者にお訊ねしたところ、小久保さんは即座に日野さんを指名された。
 落合の、明治通り新目白通りの交差点の角にそびえ立つ、珈琲色のマンションの上のほうにお住いだった。お訊ねして趣旨説明申しあげると、ふたつ返事でお引受けくださった。小説に登場される、とほうもなく美形な韓国人の奥様が、お茶を淹れてくださった。

 日野啓三は当初、戦後派批評を継ぐ、やや観念的色彩の濃い批評家として登場した。だが突如として、大新聞社からの特派記者として韓国とヴェトナムに駐在した経験を下敷きにした小説を発表し始め、芥川賞を受賞した。その転身ぶりに私は一驚したものだ。
 が、その一驚は私のあさはかだった。やがて韓国ものヴェトナムものが一段落すると、やや観念的な独自美学が、小説でも発揮され始めた。『抱擁』『天窓のあるガレージ』その他である。むしろこちらが、初期の評論に連結する、日野ワールドの本線とさえ云えよう。日本的湿潤を好まれず、瓦礫・廃墟を偏愛された。

 黒井千次さんも日野啓三さんも、直接謦咳に接する機会を得た作家には違いないが、なにがしかのご縁を結んだと思いあがるわけにはゆかぬかたがたである。身分が違い過ぎた。

 相前後して読んだ作家たちにして、もはや再読の機会も訪れまいと思える作家はと書架を眺めわたして、佐江衆一古井由吉坂上弘を抜出した。古井由吉の単行本が手許にないのは、ほとんどの作を文庫本で読んだからだ。

 面目ないことに、佐江衆一の代表的力作よりも『黄落』を記憶している。介護問題、終末医療問題を材料とする小説で、私自身が在宅介護の日々を過していたため、いちいち合点がいった。と同時に、こんなもんじゃねえや、まだ先があらい、とも感じた。介護に押しつぶされて心が狭苦しくなっているさなかの特徴として、自分より恵まれた介護の風景には腹が立つのである。
 介護に客観的数値だの指標だのはなく、銘々がそれぞれに精一杯なのだということに気づくのは、介護が終了して我に返ってからである。

 今回抜出した五人が脂の乗ったお仕事をなさったころ、ちょうど私は読書案内のコラムを連載していた。週一で六年やった。つまり全二百九十回のなかで、いく度も材料とさせていただいた作家がたである。その意味でのご恩はあるが、再読の機会はあるまい。
 古書肆に出す。