一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

トーナメント


 未来についての空想絵図を描けなくなった老人は、記憶をもてあそぶことに偏執的となる。それも探求だの細部の詰めだのではなく、かすかな想い出を繰返しなぞるだけの堂々巡りに終始することが多い。自慰的であり非生産的このうえもない。
 書架整理なんぞといったところで、眼前に本が出てきてしまうと、手が停まり作業が中断してしまう。そこで方策を講じるわけだが。

 『ベッドタイムアイズ』で山田詠美さんが登場したとき、あァ新しい作家が出てきたなと、気持ち好さを感じた。
 小柄で愛くるしいクラブ歌手「私」に、「スプーン」というあだ名の不良黒人米兵のヒモがついている。なに不自由なく裕福に生れ育った子弟を「純銀のスプーンくわえて産れてきた子」と称ぶ習慣が西洋にはあるそうで、それとは真逆の、根っから育ちの悪い奴という意味で仲間からあてこすられたあだ名らしい。ドラッグにも手を出すし、酒に酔って暴力も振るう。髪がごそっと抜けるほど鷲づかみにされ、ガラスが砕け散った床を曳きづり回されたりもする。
 よろづ自分の判断に自信が持てぬ「私」は、なにかにつけストリッパーのマリア姉さんに相談して生きてきたが、姉さんも「あの男だけはヤバイよ、悪いこと云わないから、やめておきな」と忠告してくれる。けれどスプーンと別れられない。匂いが合ってしまうのだ。
 突然どやどやとなん人もの捜査員が踏込んできて、スプーンをしょっ引いていった。米軍基地内から機密文書を盗み出したそうだ。途方もない高額に換金できる筋でも掴んでいたのだろう。「私」は残された。これでスプーンの手から逃れられる。解放される。けれど、スプーンが釈放されるまで待つ気になりかかっている自分に気づく。
 トイレで水を流す。排泄物も紙も、勢いよく流れてゆく。だが流れてゆかぬものがある。下腹部になにか溜ったままだ。物ではない。気持だ。なん度水を流してみても、出てゆかない。流れてゆかない。

 これまで男たちは、次から次へと現れては、「私」の腹の上でしばらくもがき、汗をかいては消えていった。災難や悲しい出来事だとて、眼をつぶり鼻をつまんで辛抱していれば、やがて過ぎていった。どれもこれも、自分が穢されたり傷つけられたりするには至らなかった。そしてマリア姉さんの忠告を尊重して生きてきた。それなのに――。
 「私は記憶喪失の天才であったはずなのに。初めて私自身に所有物が出来てしまったのだ。」
 新しい時代性や風俗模様を採り込みながらも、根本主題と言語感覚においては日本近代小説史の本流に沿うと申してよろしい新作家の登場だった。

 ある機会に「風俗的表面を剥ぎ取ってみれば、古風とすらいえるまっとうな作家山田詠美」と紹介する記事を書いたところ、山田詠美を採りあげて「黒人」というキーワードが一度も登場しないとは、なんとセンスの悪い批評家であることか、とのコメントがいくつも返ってきた。世相風評などというものは、度し難いものと痛感した。
 後年山田詠美さんは、短篇名手とも称され、進路に思い悩む若者に勇気と指針とを授ける教祖的役割をも担い、外国人の日本文学研究者による研究対象ともされるにいたった。まことに同慶の至りではあるが、さようなられてからの山田さんを私はほとんど存じあげない。出発時において、この作家を信用した。あとはいかほど巨きくなられようとも、あァきっとさようでしょうね、と思うばかりである。

 さて書架整理の方策だ。想い出に足を掬われてはならない。評価に惑わされてもならない。差し迫ったわが住環境の急務である。情に流されずに、古書肆のお世話になるべきだ。そこで一計を案じた。たいていの場合は書架で隣り合せに収納されている、双璧とも思える複数作家のご著書を抜出し、究極の選択を自分に迫る。これを繰返してゆけば、やがて総量が減ってゆくにちがいない。トーナメント方式である。
 本日対戦の結果。山田詠美、出す。ただし『ベッドタイムアイズ』一冊のみ残す。線引きや書込みがあって、古書肆さんにご迷惑がかかるかもしれないからだ。
 対戦相手の小川洋子を、残す。理由はいずれ。