一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

落ちゆくさき

 放置されてきた物置から。

 父には蔵書を整える趣味がなかった。読み了えた本はおおむね処分された。ともすると再読または参照の機会が訪れるかもしれぬと判断したものだけが、かろうじて書架に置かれた。文字どおり「置かれた」のであって、並べられたという形跡はない。
 文学なんぞ実学にあらず、遊び人の道楽に過ぎぬと、考えていたふしがある。小説を読むことが嫌いではなかったようだが、作家の顔触れを視ると、山本周五郎海音寺潮五郎司馬遼太郎、それに吉川英治だ。歴史上の人物を扱った娯楽小説類だ。

 米処の自作農の三男坊だった。家産はすべて長男が相続する時代だったから、貧困画に描いたごとくの壮年期と、勤務・自営の二足の草鞋に多忙を極めた中年期を過した。読書は通勤電車内だったろうか。それとも昼食後のわずかな休息時だったろうか。読みやすいものが選ばれたことだろう。細切れの時間をつなぐ関心の持続が求められたのだったろう。
 才女とか女丈夫と称ばれるような、目立つ女性に惹かれる傾向があった。戸川昌子田辺聖子有吉佐和子の著作が残っている。有吉については『恍惚の人』の大ブームあったがゆえかもしれない。というのも丹羽文雄親鸞』が第一巻のみ残っているからだ。世間での話題に反応してはみたものの、期待ほど面白くなかったと見える。
 今東光大僧正の毒舌エッセイに留飲を下げた形跡が視てとれるが、小説家今東光に興味を示した形跡はない。
 なぜか、東大全共闘による東大闘争ドキュメンタリーが一冊混じっている。世間での話題に惹かれて、ふと手に執ってみる気を起したのだろうか。ご愛敬である。断じて、私が買ったものではない。

 それやこれや、揃いものとしては欠けがあり、日々かばんの中身として持ち歩かれたろうから傷みの加減もよろしくない。いわゆる雑本である。リサイクル本としての値打ちを踏みにくい代物ばかりだ。
 だが、素人考えで勝手な判断をするな、すべて引渡せと、古書肆のご店主からは釘を刺されている。お云いつけどおり、すべて古書肆に出す。

 吉川英治『新・平家物語』新装普及版全12巻(1962 - 63)。

 『新・平家物語』が『週刊朝日』に連載され始めたのは昭和二十五年(1950)のことだそうだ。以後七年間も連載された大作である。
 まだ『週刊新潮』『週刊文春』など出版社系週刊誌は創刊されておらず、『週刊朝日』は『サンデー毎日』とともに、週刊誌の両横綱だった。巷の耳目を一身に集める、まさに小説家にとっての檜舞台だった。
 かつての栄耀栄華は夢のごとく、今は落ちゆく身となった平家将兵の姿に、敗戦国の民たる読者はみずからの身の上を重ね合せて、毎号むさぼるように読み進めたという。
 完結し単行本化されるや、当然ベストセラーとなり、第一回の菊池寛賞を受賞した。その後も読者人気は衰えず、より手軽な新装普及版として再刊行されたものがこれだ。

 揃いものを全巻揃えて書架に並べ置くというこだわりは、父にはなかった。わずかにこれと、三週間前に古書肆への荷に投じた『私本太平記』とがあるばかりだ。
 しかも感心なことに、スピン(栞ヒモ)のありどころや新聞切抜きが挟みこんであった場所などから察するに、全巻読了したと見える。この時期よくよく吉川英治に入れ込んだものらしい。
 現在の私は、『平家物語』を名文お手本のひとつに数えている。吉川英治の現代語訳力を借りずとも、なんとか読める。よって、古書肆に出す。