一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

古学断念

 『深田康算全集』全四巻(岩波書店、1930 - 31)

 唐木順三だったか久野収だったか、記憶が判然としないが、ともかく京都学派の空気を浴びて育った論客による、肩の凝らぬ回想文だったか対談記録だったかで、読んだ記憶がある。
 高名な京都帝国大学文学部哲学科には三教室があって、A が田辺元教授、B が西田幾多郎教授の教室だった。文字どおり当代日本哲学界を代表する教授がたで、学徒はいずれかの名教授に師事したくて京大哲学科へ進学した。
 哲学C は深田康算(やすかず)教授で、こちらは哲学というよりも、美学や芸術論に寄せた柔軟かつ自由な教室だったという。田辺・西田のいわゆる「大哲学」に飽き足りぬ想いを抱き、より文学書生的気質の旺盛な学生は、むしろ深田教授を慕ったという。ゴリゴリの西田門下だったはずの三木清や戸坂潤も、深田教授には密かに注目していたのではないか、というような回想談だった。

 こんな事実は、正統的なアカデミズムの躾けを受けた人間であれば、なにかの拍子に師匠の雑談やら学界の噂噺やらで耳にするはずだ。そういう躾けを受けていない私は、先達の著作で拾ったふとした逸話でさえも、確かめるとなれば馬鹿正直に原著を探し歩くしか能がなかった。
 こっそり水源へと遡る。もとより誤解・誤読・理解不十分は避けられない。自己流曲解もやむをえない。たとえ小片部分に過ぎなくとも、自力で理解しえた限りを尊重する。自分の学力にては理解できなかったことは、みずからが縁なき衆生だったと諦める。つまり無手勝流体当り、独断偏見自己流本意でやってきた。

 教養課程の学生時分のこと、シェイクスピア戯曲の翻訳をしきりと読んだ時期があった。親しくしていた学友が、お前なんぞがなぜシェイクスピアをと冷やかしてきた。高校生時分から木下順二を信奉していた私は、木下順二が敬愛してやまぬシェイクスピアをというようなことを応えた。なにぃ、木下を解りたくてシェイクスピアをってか。学友はさも面白そうに嗤った。そして英文科へ進級し、『マクベス』研究の卒論を書いてさっさと卒業してゆき、大手出版社の編集部員となった。
 私のやりかたは、いつもそんなふうだった。だがすでに、水源を索めて沢登りしたり杣道を行く力は残っていまい。
 『深田康算全集』全四巻を、古書肆に出す。

 文庫本でも古典文学全集でも、古代ギリシア関連の翻訳および入門解説書の完備には眼を瞠るものがある。プラトンアリストテレスは別格例外として、悲劇だって喜劇だって、わが学生時分にはそうやすやすと読めるものではなかった。人文書院版の翻訳は出ていたが、全集という名の代表作選集に過ぎなかった。歴史となるとさらに訳本は限られた。視つけたと思うと、抄訳だったりした。

ホーマー『イーリアス土井晩翠 訳(冨山房、1940)
ヘロドトス』坂本健一 訳(隆文館、1914)
ヘロドトス『歴史』青木 巖 訳(新潮社、1968)
トゥーキュディデース『歴史』上下二巻、青木 巖 訳(生活社、1942 - 43)
原 隨園『ギリシア史研究』(岩波書店、1928)
原 隨園『ギリシア史研究』全三巻(創元社、1942 - 44)

 かつて探し当てては小躍りした古訳古著だが、参照しつつ新訳を読むというような機会は、もはやあるまい。「将軍ここにて東夷を討ち果さむと決起して」というような、パパンパンパンと張り扇の音が聞えてきそうな名調子に、うしろ髪曳かれぬでもないが、それもこれも身のほど知らずというものだろう。
 かような書籍に眼を止めるおかたが、今の世にありやなしや。古書肆に出す。