一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

手堅さとの別れ


 ゆっくり通読する晩年は来ないもんだろうかと念じていた本がある。そんな時期がやって来ることはない。

 若き日、北村透谷に眼をつけていた時期がある。読返せば、今でも懐かしいし感心する。教えられる。
 諸家の透谷研究にも眼を通したいとの念願を立てた時分もあったが、しょせん私ていどの学識では無理と諦めた。集めかけた書もだいぶ前に手放した。わずかに残ったのは勝本清一郎業績と平岡敏夫業績だ。

 平岡敏夫さんとは、同人雑誌がらみの酒席で、一度だけお会いしたことがある。遥かに目上の先達だから、私から声をおかけする場面はなかった。素朴でユーモア溢れるお人柄で、旧知の同学がたから槍玉に揚げられたりする、昨今の若者言葉に云うイジラレキャラのようだった。
 ライフワークとおぼしき『北村透谷研究』全四巻と『評伝』一巻(ともに有精堂)も、お人柄そのままに、手堅く積上げた業績と云える。鬼の首を獲って大向こうを唸らせるたぐいの大立回りは見られない。

 北川透については、かつて理解を断念して、詩集と評論集二十冊ほどを一括して手放した。そのさいに北村透谷論の一冊のみを残してあった。
 が今回、平岡敏夫業績を古書肆に出す機会に、付けて出す。
 勝本清一郎業績は残す。また舟橋聖一『北村透谷』を残す。むろん研究書としてではない。舟橋小説として残すわけだ。
 つまるところ私にとっては、『透谷全集』全三巻(岩波書店)があれば足りる。これも編者勝本清一郎による、綿密を極めた業績のひとつである。

 高山樗牛の『樗牛全集』(博文館)が一冊だけ手許にある。第四巻だ。初版は明治三十八年に刊行されて、これは四十年刊の第五版だ。初版部数だの増刷部数だの、当時の出版事情については知識皆無だが、読書界に知られた本だったのだろう。定価一円五十銭といえば、庶民価格の本だったとは考えにくい。
 『増補縮刷 樗牛全集』全六巻(博文館)が揃っている。大正三年から五年にかけて刊行されたが、いずれも大正十年前後に刊行された第二十五版前後のものだ。人気を博した本だったのだろう。定価二円八十銭というから、造本体裁を比較しても、明治年間のものよりだいぶ高価だ。好景気と社会的気分のなかで、物価が急上昇していたのだろうか。

 日露戦争後、日本の資本主義体制がおおむね整い、国民気分も明るい陽射しと順風に見舞われた一時期があったという。衣食足りて礼節を、ではないが、大正期の前半には青年たちの間でも信仰心を帯びた道徳観の追求といった志向が盛んだったと聴く。典型例としてしばしば挙げられるのが、阿部次郎『三太郎の日記』や倉田百三出家とその弟子』の大流行だ。
 白樺派の台頭という文学史的動向は、この面からも考えられるべきだろう。有島武郎志賀直哉・里見弴の小説を、今読み直して評価することは容易だが、武者小路実篤の思想を理解し直すことは、あんがい容易ではない。

 さような新しい息吹のなかで、高山樗牛の文章は明らかに前時代の名文に属する。文学を論じても美学を論じても、漢文読み下し調を主体とした、格調も勢いもある名調子なのだが、浴衣がけで道行く人びとに向って陣羽織を着込んだ大道講釈師が大声を張りあげている感じがある。前時代に華ばなしく大流行すると、次の時代からはまっ先に遅れを取る例の、これもひとつだろうか。
 しかし概説なんぞ信用するな、自分の眼で確かめよとばかりに、かつて入手した本たちだが、さて四十年所持してあるうちに、どれだけのことが確かめられたものだろうか、自信がない。
 高山樗牛を古書肆に出す。