一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

文明の恩恵



 筋向うの音澤さんのお宅では、ご門周辺のコンクリート造作の解体作業が始まった。往来に面した土地を東京都から早晩召上げられることになっているから、ご準備だろう。そちらへは四メートル、拙宅側へは八メートル下れと、東京都は云ってきている。

 四五日前に、業者さん名義による挨拶文の印刷物が、郵便受けに投込まれてあった。音澤邸のコンクリート解体により、騒音と若干の粉塵のご迷惑をおかけするとの内容だった。ご迷惑なんぞはお互いさまで、なんとも思わぬが、文面があまりに事務的かつ無機質なのに、かすかに鼻白む想いがした。早朝にゴミ出ししたさいなどに、音澤さんと顔を合せる機会もあったのに、ご本人からはなにごともひと言も伺わなかった。そういうものかしらんという気が、かすかにした。

 作業員さんは二人組だ。太い鋼鉄のタガネをモーターで振動させる、手持ち機械を操作している。なるほど近所に鳴り渡る、たいした作業音だ。
 一人は鉄門扉を外して、ご門と脇の駐車場との境をなすコンクリート壁を解体している。もう一人は駐車場の隅で、マンホールの周囲を掘削している。道路下の水道本管から音澤邸への枝分れを統御する設備が埋設されてあるのだろう。土地所有権が移転すれば、設備も位置も変更されるのかもしれない。

 建物と土台とをもろともに解体するというような大工事であれば、シャベルローダーのスコップの先端に巨大なタガネを取付けたような、キャタピラ移動の重機が登場するのだろう。接近不可能の立地環境であれば、あさま山荘ニュースで有名になった巨大鉄球が登場したりするのかもしれない。また公園の水飲み場の修理というような小規模工事であれば、職人さんが手作業のタガネと金槌でやっつけてしまうかもしれない。
 ちょうど音澤邸ご門周辺のような中規模工事にあって、モーター振動による手持ち機械が登場するのだろう。この程度の工事であれば振動はないし、粉塵ったって知れたものだ。が、音量だけはたいしたものである。

 作業員さんがたの小休止を視計らって、お向うの粉川さんのお婆ちゃんが近寄っていった。クレームというのではない。粉川さんにも事前挨拶文は届いているはずだ。ただ粉川さんは往来に面した一階部分を、親戚の若奥さんにまた貸ししておられ、そこでは犬の美容院が営まれている。粉川さんご自身も大の愛犬家だ。ワンちゃんたちが音に怯えたり神経質になったりするので、作業時間や作業日程を訊ねているらしい。
 「わたし一存では、なんとも……」
 年嵩のほうの作業員が、恐縮そうに応えている。

 なん十年も視慣れてきた粉川邸ご門周辺は、わずか一日の作業で様変りした。文明の利器による威力である。
 仕事の区切れ目ということもあろうが、五十分か一時間作業が続くと、およそ三十分の小休止となる。小休止と昼食休憩とを合せて、たっぷり一時間半の昼休みをとっておられるようだ。
 チェインソーを扱う林業従事者と同様に、長時間連続の作業は健康被害を引起しかねないのだろう。血流や血圧に支障をきたし、心臓にも末端毛細血管にも、ひいては脳にまで悪影響を及ぼしかねぬと聴いたことがある。
 労働時間の安全基準を堅持する。こちらは文明ではなく、文化の力だ。