一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

うしろ髪

 



 未練なく諦めがつく本と、うしろ髪引かれる本とがある。文学的評価とは関係ない。内容の稀少度(いわば文化的価値)とも市場価格とも関係ない。

 『中野重治全集』第七巻第八巻を古書肆に出す。巨篇『甲乙丙丁』収録巻だ。もともとそのつど個別買いした不揃い全集だから、ばらしてしまうに躊躇はない。
 『甲乙丙丁』は、かつて渦中に身を置いた文豪による、日本共産党初期運動の動かしがたき裏面証言である。あくまでも小説ではあるが、今日では後進の研究によって、おびただしい数にのぼる登場人物たちのモデルがそれぞれ実在した誰であるか、「作中人物とモデルの対照一覧表」まで出ている。かつて挑んで、早そうに挫折した。基礎知識貧弱な私には、時間がかかり過ぎた。
 『全集』で申せば第一巻に収録の、詩作品および詩人としての初期文章を残す。また第二巻第三巻に収録された、『村の家』を筆頭とする昭和十年代の、いわゆる転向小説を残す。『歌のわかれ』『梨の花』など自伝長篇や問題作『むらぎも』は、『全集』によらずとも、文学全集の「中野重治集」一巻本や文庫本などで容易に読める。中野重治にまつわる諸家の文章を集めた『全集』補巻にあたる『中野重治研究』は残す。

 形影あい伴うがごとくに中野重治と志を共にした人はとなると、作家としては佐多稲子だろうが、論客としては石堂清倫なのだろう。みずからを律して立居振舞いに峻厳な人という印象を受ける。が、それを味わい直す時間も余力も、私には残されてあるまい。このさい石堂も出す。
 中野重治が除名処分に遭って党外にあった時期を含めて、戦後の歴史としては、安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』があるが、これも出す。私にとって著者は出身高校の先輩にあたり、OB 囲碁界なる暢気な場でお姿を拝見したが、はるか上座とずっと下座につき、挨拶申しあげる身分でも立場でもなかった。自己紹介スピーチでは、低音にして張りのある、いわゆるドスの利いたお声で、なるほどお齢のわりに凄い迫力だわいと感じ入った記憶がある。
 いかなる経緯で手に取ったのだったか、蔵原惟人の随想集が一冊あったので、出す。レーニンの『文化・文学・芸術論』上下二巻も出す。私が影響を受けた戦後批評家がたが基礎教養とした分野だから、わきまえておこうと発心したのだったが、読み始めてすぐ、私にとってはたいして面白くもない本だと気づいた。

 武井昭夫をすべて出す。戦後ほどなく組織された全学連の初代委員長で、のち『新日本文学』を中心に発言した論客だ。花田清輝と共闘もし、論争もした。吉本隆明と共闘もし、論争もした。井上光晴とも、谷川 雁とも仕事を共にした。
 教示を受けることは多かったが、敬服した憶えはなかった。多能多才な運動族型の言論人ではあるが、文士というのとは違う。肌違いだ。

 秋山 清の名を眼にすると、愛着が残っている。が、刺激だの啓示だのよりは、懐かしさが先に立つ。わがエネルギーの衰耗によるのだろう。もっとも軽便な思潮社版現代詩文庫1046『秋山清詩集』一冊を残し、他をすべて出す。
 竹中労の著作はいく冊かあったはずだが、なにと組合せてどこへ収納したもんだか、今出てこない。とりあえず秋山の隣にいた一冊を、同じく松下竜一の一冊とともに、出す。
 ソルジェニツィンを出したときに付け漏らした内村剛介が一冊出てきたので、出す。辻 潤を出したときに付け漏らした大沢正道『虚無思想研究』上下二巻が出てきたので、出す。

 松本健一は戦後生れ世代の先頭を切って登場した論客のひとりだ。左翼的バイアスから逃れた観のある独自の着眼に、おおいに教えられ刺激を受けた。が、この論客の核心部分の情熱には、つまり炉心もしくは光源には、なにかしら私の理解及ばぬものがあり、諸手を挙げての愛読者にはなれぬままに了った。
 北 一輝に関する論考や解説のみを残して、他を出す。